『エリオルの帰還』


ゴンっ!

引出しの中で何かがぶつかる低い音。 部屋の主は僅かに身をよじったが布団の中にもぐり込んだままだ。 起きる時刻まではまだ 30 分ほどもあった。

「クロウさんが一人、クロウさんが二人、クロウさんが三人、‥‥」

のそのそと這い出してケルベロスはさくらの布団の上に浮かびあがる。 彼の主はまだ夢の中に居るようだ。 予知夢かなにかだろうか、緊迫した空気の中でケルベロスは思う。
広がる草原に簡単な白い柵、その両側にクロウ=リードが沢山いて、 ふと一斉にこちらを見つめて、あの微笑み、あの声で

「「「「「ケルベロス?」」」」」

背筋にそって氷の針でも突き通したような寒気が走った。

「や、やめい! あの根性悪がそんなに居てたまるかぁ、こらおきんかい、さくらっ」

悪夢を振り払うように布団の上に浮かんだまま小声でゆり動かす。 頭にはすこし腫れて赤くなったコブが出来ている。 一度眠ればなにがあろうと起きない、と自他ともに認めるケルベロスが 珍しくさくらより先に気付いて起き出してきたと思えばできたコブだ、 コブにかけてもさくらには起きてもらわないと、とばかりに気合いが入る。 下に聞こえないように小声だ、というあたりで迫力はないが ‥‥

「‥‥ あ、ケロちゃん ‥‥ おはよ、‥‥」

もそもそとさくらが半分起きだして時計を取る。 しばらく針をみつめてからケルベロスに寝惚け眼を向けて不満の声を上げた。

「まだ朝だよぅ ‥‥」
「朝にきまっとるやろが。気付かんか、この気配?」
「ほぇ? ‥‥ 魔力の気配 ── クロウさん? 外!」

そのままぴたっと止まったさくらが何かを感知した瞬間、 もやがかかったような表情が吹き飛ぶ、ケルベロスが「ようやく起きたか ‥‥」 と思う間もなくさくらは天窓へ駆け寄り、ガラス戸を押し上げて空を見つめた。

「ケロちゃん、あそこ!」

一瞬にしておいてきぼりをくらってやや不満げながら ケルベロスもさくらの横から顔を出す。遠望してさくらがつぶやく。

「エリオル君と ‥‥ 誰?」

少し離れた空の上で二人の少年がときおり雷かそれに似たものをぶつけあっている。 羽も杖もなしで平気で空を飛び回り、そして不思議なことに音はまったくしない。 静かな、静かな戦いだった。ケルベロスが感心したように、

「クロウはともかく、もう一人のほうも相当な魔力の持ち主やな」
「‥‥ うん」

生返事のままとってかえし、さくらは制服に着替え始めた。

「あれはサイレントや。音が下に洩れんようにしとる、 音だけやない、雷や魔力すらロクに洩れんようにしとる ── ってこらさくらどこいく気や!」
「止めなくちゃ!」

見物気分で眺めている脇からさくらが外へ出ようとするのをケルベロスは慌てて止めた。 むしろ動こうとしないケルベロスを非難するようにさくらも叫ぶ。 上から抑えこむように、

「やめぇ。見てみ、サイレント、シールドも広げてエリオルには余裕がある、一発もあたってへん。 それにさくらが中入ったらシールドが破れてまう! 近所迷惑や」
「でもっ」

ケルベロスの声が聞こえたかのようにサイレントが外される気配があった。 シールドもなくなったのか、 エリオル達のところからさくら達のところまでの空気に清涼感が戻る。 もう一人のほうの雷撃も止んだ。何かエリオルに怒鳴っているようだが、 言葉の内容までは聞こえてこなかった。

さくら達が見守っているうちに突然エリオルが逃げ出しはじめた。 当然のようにもう一人もそれを追いかける。 速い。さくらがフライを呼び出す暇もなく視野から消える。学校の方角だ。 エリオルがなぜ追われているのかは分からないが ‥‥

「‥‥ 大丈夫かなぁ、エリオル君」
「大丈夫ですよ、さくらさん」

さくらの頭上から声。みると屋根の上で 杖を抱えたエリオルが座って微笑んでいる。 慌てたようにさくらは消えた方角と屋根の上のエリオルを交互にみつめ、

「じゃ、じゃ、あれは」
「幻影ですよ。途中で入れ替わりました。 今日一日くらいはあれを追いかけまわしているでしょう」
「そ、そっか」

よくできたイリュージョンだった。遠目とはいえさくらにも見分けはつかない。 さくらが納得するのをよそにケルベロスがエリオルの正面から詰め寄る。

「くぉらエリオル、おまえ何したんや!」

エリオルは受け流すように首を傾げた。

「‥‥ さあ?」
「さあって何じゃさあって!」
「それよりさくらさん。そろそろ学校へ行くお時間では?」

と、ちょうど目覚しが鳴った。 そろそろ下の住人が彼女を呼び出す時間だ。 目覚しを止めにベッドに戻る。 制服には着替えているから、そのくらいの時間はある ──

「あの、エリオル君、」


「まあ、それでどうなさいましたの」
「うん、それでね ‥‥ 夜中ずっと追い回されてたから、いったん家に戻って寝るって」
「それは大変でしたでしょうね」

首を傾げる。エリオルが必死な形相で逃げ回る姿、というものもなかなか想像し辛い。 そういうこととは無縁の存在に思えるのだ。知世には。

「相手の人はどういう方ですの? 柊沢君との間に何があったんでしょうか」
「エリオル君はプライバシーだからって教えてくれなかった。
一つ二つ上の男の子で、すっごい魔力があってね、 フライなしでフライと同じくらい速く飛んでた」

さくら自身はカードなしではほとんど何もできない。 自分からそういう力を使いたいと思ったことはないが ── 小狼君が帰国する日に空港に向かった時くらいかな、 とその時のことを思い出して内心で少し赤くなりつつ、 こんど浮く練習もしてみようかと話を続けながらさくらは思った。 ユエさんに訊けば浮かび方は教えてもらえるだろう。

「でもケロちゃんが言ってたように、そういえばエリオル君は逃げ回ってるじゃなくって、 受け流してるだけみたいな。 落ち着いてきて話が出来るようになるのを待ってる感じだった。けど、 一日二日で落ち着くような感じじゃなかったような」

首を捻る。夜通し、というエリオルの言葉が簡単に信じられるほど その後ろ姿には執念深さ、のようなものがあった。 トラブルというにはエリオルのほうに深刻さがないが、容易にケリがつくという感じでもない。

「それでは、‥‥ 幻を追いかけているのに気付いたらまた怒り出すのではないでしょうか」
「そうなんだよね。どうするつもりなんだろう ── どうしたらいいんだろう?
知世ちゃんはどうしたらいいと思う?」

知世は頬に手を当てて考えた。

(すこし変ですわ ‥‥)

自分が何をしているか、ということを理解していることに関しては エリオルは同級生の中では飛び抜けている、と知世は思っている。 その彼が余裕を崩していなかったのなら、彼自身で解決できる領分だ、ということだ。 横から口を挟んで彼の予定が狂ってしまわないだろうか。
彼はさくらの前に争う姿を現した。 さくらが彼のことを心配しない、ということは絶対にないことは 彼も分かっているだろうから、このこと全体が「口を挟むな」というメッセージのはずはない。 だから ──

知世は今できそうなことをひととおりまとめる。

「やっぱり、その方からお話を伺うしかないのではないでしょうか。 柊沢君とは冷静にお話できなくても他の方となら大丈夫でしょうし」

と、何かに気付いたように知世は手を合わせて目を輝かせた。

「カードキャプターさくらちゃんの出番ですわ」
「はは ‥‥」

さくらは苦笑いした。 カードをすべてさくらカードに変えてから 1 ヵ月、 「カードキャプターさくら」の出番は無かったわけで、知世が喜ぶのは分かる。 もっとも、カードを使うことはないかな、とさくらは心の中で思った。 そんなに悪い人には見えなかったのだ。

エリオルがサイレントを解除した時に攻撃を止めたことから、さくらはなんとなくそう思っていた。

いずれにせよ、一度はエリオルの家を訪れないといけない。それは話以前の問題だ。 そもそもエリオルが日本に戻って来ていることすら さくら達は知らなかったのだから。問題の人をどうやって見付けるか、ということもある。
幻影の位置はたとえば小狼なら羅針盤を使えば先回りできるのだろうけれど、 さくらの感覚だけでは逃げ回る幻影を追いかけることはできても捕まえることは難しい。

学校からの帰りにさくらと知世は柊沢家を訪ねることになった。


学校からの帰り道、ペンギン公園の脇を通りぬける時、 公園の柵に座り込んでいた少年がさくら達に話しかけてきた。

「あのー、このあたりに柊沢つう人の家があるはずなんやけど、 どこだか分からんでしょうか?」
「柊沢? エリオル君の家なら ──」

ちょうどこれから向かうところだ、とさくらは答えかけて知世に袖をひっぱられた。

(さくらちゃん、さくらちゃん、今朝柊沢君を追いかけまわしていたのはこちらの方では?)
(ほえ?)

道を尋ねた当人のほうはいかにも「探し回ってみつかりませんでした」という疲れた表情で さくら達をみつめている。 「知らない」という即答でなかったことから少し期待もしている風で、 にこにこしながらさくらの返事を待っている。疑いの眼差しを向けられているのは とくに気になってないらしい。

背は小狼やエリオルより頭半分高く、 散歩の途中、とでもいうほどの軽装ながら 山登りでもしてきたのかというほど服装がよれている。 そのまま行き倒れていても決して違和感はないだろう。 そして、全体に疲れた感じが先に立って今ひとつ気配が読み辛いが、 言われてみれば確かに魔力というか、力の気配があった。知世に答える。

(あ、そうかも。力を纏ってる感じがする)

しかもこの気配のカラーには見覚えがある。

(この気配 ‥‥ 誰だったっけ ‥‥?)

疑っている今はともかく、普通に会えばそのまま親しんでしまいそうな、 そういう馴染みの深い。はにゃ〜んとなってしまいそうな?

「今朝の人」は遠くから眺めみただけなので誰と言えるほど覚えていないが、 「柊沢」と関わりのある、魔力の持ち主が二人も現われたのは偶然だろうか。 今朝までエリオルが戻って来たことを自分達でさえ知らなかったのに。 さくらは尋ねた。

「あの ‥‥ 今朝エリオル君を追いかけてた方ですか?」


『なんでそれをっ』

自室に魔法陣を敷きさくらと彼のやりとりを眺めていたエリオルのそばで スピネルは呆れた声をあげた。

「バカですね」

床の魔法円の中には さくらに問われてやや大げさな身ぶりで後ろに下がってみせる少年の姿が映しだされている。

「自分から正体を明かすことはないでしょうに」
「‥‥ いや、あれが彼の流儀なんだろう。いろんな意味で面白い人だ」

久しぶりの椅子に腰かけて肘をついたままエリオルも笑いながら答える。

「僕は驚いているんだよ。彼は明日の朝までここにたどり着けないはずだった。 このぶんだともうすぐここにやってくるだろう。 彼は意識もせずに僕の組み立てた予知を崩したんだ」
「偶然でしょう? あなたの予知から無意識のうちに外れる人がいるなんて、 そうそう信じられませんね」
「この世に偶然なんてないんだよ。スピネル」

エリオルは立ち上がった。

「どちらへ?」
「お茶の用意だよ」

スピネルの問いに彼はそう答えた。

「ルビームーンが居ないからね。僕がしなきゃいけないのさ」

スピネルがため息をつきながら魔法円に視線を戻すと、 なにかすこし困惑した表情の少年と、こちらはなにか必死にお願いしている少女、 それを横からにこにこしながらみつめている少女の姿があった。


「いちおう、そういうわけにもいかんのや」
「でもそれじゃエリオル君の家には案内できませんっ」
「そらそういうことになるやろな ‥‥ まいったな ‥‥」

やや喧嘩腰のさくらとそれを困ったように見つめる少年を等分にみやってから知世が提案した。

「こうしてしても仕方ありませんし ‥‥ 今日 1 日だけ柊沢君に暴力を振るわない、 という約束ではどうでしょうか?
さくらちゃん、ここでお教えしなくてもいずれ柊沢君の住むところは分かってしまいますわ」
「今日 1 日、‥‥ まあ今日だけなら、それくらいならええかな? 大丈夫かな」
「さくらちゃんも?」
「え、うん」

平和に二人を話しあわせたかったのだから、これでいいわけだ。1 日も話しこむ時間があれば大丈夫だろう。

「ありがとう、知世ちゃん」
「どうしたしまして」
「ああ、俺も礼言うとく。サンキュな。いや、助かったわ。マジで」
「ところでなんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「観月陽一や。はじめまして。そちらさんはともよちゃんと、さくらちゃんか」

二人の反応は少し遅れた。先に知世が手をそろえて礼をする。

「大道寺知世です。はじめまして」
「あ、ああ」

わずかに彼が引く。道端の通行人にするような挨拶ではない。

「木之本桜です。はじめまして ‥‥ あの観月先生と、観月歌帆先生とは ‥‥?」

さくらは思い出した。この気配、観月先生と同じだ。

「なんや歌帆ねえの生徒か ‥‥ 歌帆ねえは従姉や。って、木之本? うん?」

彼のほうもなにか記憶に引っかかるところがあったらしい。 しばらく首を捻っていたが、どうやら思い出せなかったようだ。

「ま、ええわ。ほな行こか。エリオルんとこでメシでも出させんと俺は死んでしまう」

暴力を振るわないという約束なしでエリオル君の家にたどり着いた場合でも ご飯を食べて行くつもりだったのだろうか ── さくらは思った。
知世のほうを振り返ってそう告げると、彼女はくすくす笑いながら一言だけ答えた。

「きっと大丈夫ですわ」


「‥‥ でかい」

柊沢家の門の前で陽一が呆れるようにつぶやいた。 その洋館は彼の地元なら立派に観光名所の一つに含まれそうなものだ。

「あいつ、こんなとこで独りで住んでおったんかい」
「ほぇ? 秋月さんと ‥‥ もう一人と一緒だよ?」
「秋月、ってどんな人や」
「お兄ちゃんの同級生でね、明るくて、綺麗な人」
「‥‥ ほう?」

一転して言葉に敵意が滲んだ。

「ま、ええか」
「いらっしゃい」

門に手を掛けると、すっと開く。庭先にテーブルが置かれ、席が 4 つ。 その脇でエリオルがにこにこしながら立っていた。 反射的に陽一の左手に魔力が宿ったようだったが、すぐに消散した。 さくらはほっと胸をなでおろす。
気付いているのかいないのか、エリオルが微笑んだまま告げた。

「歓迎しますよ。陽一さん」
「もちろん視てたわけか ‥‥」
「いえ、そろそろかなと」
「やっぱり視てたんやないか。人を引きずりまわして面白がっとったんやろ」

ぶつくさ言いながらもおとなしく陽一が席につく。 さくらと知世もそれに続いた。

「こんにちは。さくらさん、知世さん。今朝はお恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「ははは ‥‥」

としかさくらには答えようがない。そうではないと幻影の出来を褒めれば 当の相手の陽一が拗ねるか怒るかするだろう。彼の言葉に頷くというのもすこし変だ。
穏やかではあるものの陽一の立場に身を置いて受け取ると 怒りっぽい人なら確実に怒りそうな、そういう危うさがエリオルの言葉にある。

さくらが困っていると、やんわりと知世がたしなめた。

「今日一日は陽一さんは暴れないとおっしゃって下さったんです。 柊沢君もあまりそういうことはおっしゃらないで下さいな」
「ああ、失礼。そうでしたか」

エリオルは表面上は感心するように陽一に確認の目を向ける。

「そや。泊まってくのにそれくらいの礼儀はある」

胸はって陽一が答える。 要するにここはエリオルの地元だ、土地感もなしに勝負になるはずがない。 大人しくしている他はない。

「泊まる? ここに?」
「ああ」

それが当然のように肯定する。

(そんなの聞いてないよぅ)

驚くさくらをよそに知世のほうはなんとなくそういう予感がしていた。 ‥‥ そもそもどこかに泊まれるような風体ではない。 この近所の人でもない、それならエリオルとの諍いは去年のうちに知世の耳に入っていただろうから。

「そうですか。わかりました。あまり暴れないでくださいね」

微笑みながらエリオルは頷いた。 後半の言葉を聞くと同時にそっぽを向いた陽一を見ながら、さくらは一つの決心をかためつつあった。 そういう魔法の使い方をしたことはない。 カードをそういう目的で使って良いのかどうか、という点でも胸張って頷く自信がない。 なによりも小狼ならそういうことはせずにすませるのではないか。

が、この二人の喧嘩は雷が飛び交うのだ ‥‥ あまりに危険だし、自分のために魔力を使うという、どことなくルール違反の感じも受ける。 だから自分も似たようなことをして良いのだ ── とはさくらも思わないが。

今、決めなければならない。家に戻ってケルベロスと相談する余裕はない。 また、今の位置関係ではまだ行動を起こせない。その発動には条件がある。
一つのカードの絵姿を思い浮かべると、 カードの一枚がポケットの中で少し浮かび上がるようにして応えた。 たぶん、そのカード。

(ごめん、まだ ── 静かにしていて。二人に気付かれちゃう)

知世がさくらが考え込んでいるのに気付いた。

(さくらちゃん?)
(ともよちゃん ‥‥)

さくらの意識は半ば以上カードと二人に集中している。 どう説明して良いのかも考え付かない。 仕掛けるチャンスがないのなら、それはそれで良いのかもしれない。 さくらの思考はすっかり迷宮にはまりこんでいた。

(ごめん、あとで)


それは一瞬の出来事だった。

エリオルの挑発に陽一が乗り、怒りに燃えて立ち上がった時に椅子を弾いて後ろに転び掛けたのを エリオルが腕を伸ばしてささえた(もちろん恩を着せるためだ)、 さくらのポケットから一枚のカードが飛び出し、つられてさくらが叫ぶ。

「チェンジっ」

戻れと言う前にチェンジが発動してしまう。 二人を弾きとばした光と魔力が落ち着いてみれば、 カードは的確に発動してエリオルと陽一の精神を入れ換えていた。 真っ青になったさくらは平謝りする。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「謝らんでええから ‥‥ 戻せんのんか?」
「24 時間はこのままですね。明日の今ごろ、もう一回チェンジを使わないといけない」

さくらが魔術師であったことは陽一は特に気にせず、 魔術の詳細を尋ねた。 それにエリオルがすこし困ったように答える。 端目にはエリオルがカードの説明を求め陽一がカードの特性を説明するという状態だ。

「そか。ま、ええか。ううん、変な感じや」

腕を伸ばしたり折ったりして身体の調子をみながら あっさり納得したエリオルもとい陽一をそのままにして、 こんどはエリオルがさくらに尋ねる。

「なんでまたチェンジが飛び出したんですか?」
「あの、ごめんなさい。チェンジで二人を交換すれば 陽一さんはエリオル君にいじわるできないだろう、って ずっと思ってたから、 あのとき、二人が触れた時にチェンジがつられて飛び出してきちゃったんだと思う」
「ああ ‥‥ なるほど」
「納得すなっ」

うしろから陽一がはたいた。

「痛いなあ。いいんですか。あとでコブの出来た身体に戻ることになっても」
「あぅ」

もう 2, 3 発は ── というつもりでいたらしい手を陽一が引っ込める。

「つまり、もう 24 時間ばかり休戦になるんか?」

彼が頭の中で何かを計算しているのをエリオルがにっこりと一言のもとに否定した。

「いえ、べつに僕はかまいませんよ」
「まあ」

凍り付きかけた空気が知世の一言で砂のように崩れる。 微妙な空白の時間を天使が飛んでいく。

「お茶が ── みなさん?」
「冷めてしまいますね」

何事もなかったようにエリオルは自分のカップを取ってから、 紅茶の揺れる水面を見つめてふと手を止める。

「ところで、僕は誰のカップで飲めば良いのでしょうか?」

結局、どちらも嫌だしどちらも飲ませるかと陽一がごねた結果、 新しいカップを使うことになった。


帰り道、さくらはすっかり落ち込んでいた。 知世にも声を掛けるのがためらわれるほどだ。

なにかとあればエリオルはにっこりと話を陽一に振るし、 陽一は陽一で気付かないふりをしてそっぽを向いて紅茶をすする。

どちらも表面上は穏やかだし、 その実としても楽しんでいる ── ような気がしないでもない。 にもかかわらず一触即発の空気がどこからともなく漂ってきていた。

(はうぅ、こういうの苦手だよ〜)

そもそもの事の起こりについては、 やっぱりエリオルは陽一に振るし陽一は 何故か赤くなりながら黙秘するといういうわけで要領を得ないものの、 エリオルが再びイギリスに戻った前後頃からものだということだ。 わりと最近のことである。

エリオルにしてみれば身に降り掛かった火の粉を避けているだけでも、 避けられた側の陽一には偶然なのか反作用として必然なのかはともかく 着実にダメージの記憶が蓄積されていく。 結果として今や魔力全開の攻撃すら有りになっているらしい。

そのことにはむしろ知世のほうが感心していた。 よく周りに被害が及ばないということについてで、 知世がそう言うと当事者二人は見事に対照的な表情をしていたが、 さくらにはそれどころでない。

しかも柊沢家を辞した時にほっと安心してしまったことが二つの意味でさくらに追い撃ちをかける。 安心したこと自体と、 もう一つは「だるまさんが転んだ」じゃあるまいし、 さくらが後ろを向いた瞬間に魔力の気配が増大したことだ。 わざとやっているのか無意識なのか、ともかく陽一に念押しするはめになった。 素直に頷いていたが。

いまもまた背中にバスケットボールでもぶつけられたような痛みが走る。 柊沢家のほうからの爆裂するような魔力の気配が、さくらにそう感じさせる。 方向性もなく急速に発散する様子から攻撃とかそういったものでないのが唯一の救いだ。 さくらはほうっと息を吐いた。

「どうなさいました、さくらちゃん?」
「いま物凄い魔力が ‥‥ すぐ消えちゃったけど」
「やっぱり陽一さん?」
「うん、たぶん。大丈夫かなあ、あの二人 ‥‥」
「大丈夫ですわ。きっと。とても、仲が良さそうに見えますもの」
「そ、そう?」
「さくらちゃんと、さくらちゃんのお兄様を見ているようですわ。
── 李君も日本にいらした時はあんな感じでしたし、ね」
「うん ‥‥」

知世は思う。二人の「ゲーム」(だ、どう見ても) で魔力全力とは言っても、 実際には暗黙の節度とルールがあるだろう。それは周囲への影響を考えながら ── ということでも分かる。 友枝小に居た時も、一歩引いた位置で暖かく見守るというスタンスが多かった柊沢エリオルの、 その力と背景故に数少ない喧嘩友達なのだろう、観月陽一は。

さくらのことがあって観月先生のあとを引きついで日本に来ていたエリオルが 基本的にはその立場を崩さなかったことから少し心配していたので、実は知世は喜んでいる。 山崎と一緒になってさくらや小狼をからかって遊んでいたのが むしろ彼の本質だと思うだけに。

だから、そういう意味でも、さくらには笑っていてほしいと彼女は思うのだ。

「あの、さくらちゃん?」
「なに、知世ちゃん」
「今日はさくらちゃんのお家に泊まっていってよろしいでしょうか?
今日は陽一さん、何もしないでしょうけど、明日はきっと何かしますから、 さくらちゃんのお家からのほうが何かと便利ですわ」
「知世ちゃん ‥‥ うん、いいよ。ありがとう」

さくらはようやく笑みを見せた。


「エリオル、あなたさくらさんを故意に巻き込みましたね?」
「‥‥ 偶然だよ」
「彼女には放っておくこともできず、手をだすこともできず、見ていて痛々しかったですよ」
「さくらさんは必要なんだ。それに、彼女にも、それだけのことはあるはずだよ」
「何かあるというのですか?」
「『厄災』。どんなものかは私も知りたい。‥‥ 楽しみじゃないか?」

姿形を観月陽一に変えられていても精神には変わりがない。 処置無しとばかりにスピネルは首を振った。


地震とともにエリオルが叩き起こされたのは、午前 5 時。 まだ太陽は出ていない。

(‥‥ 昨日の今日で元気ですねぇ ‥‥)

寝惚け眼をこすりながら思う。 地震は陽一の起こしたものだろう。 何か失敗した魔力の残滓も感じる。 さくらと彼の約束が切れる午前 0 時を過ぎても何も無かったため、 てっきりチェンジ解除まで待つのだとエリオルも思っていた。 朝方の戦闘は周囲の迷惑だと昨日、本人が怒鳴っていたばかりということもある。

(そういえば、夕食のあとはずっと部屋にこもりっぱなしでしたね。 何をしていたんでしょうか)

エリオルの作った夕食については陽一はぶっきらぼうに褒めていた。 エリオル自身の分の軽く 2 倍を越える量を彼の前に並べた時点で 親のカタキでも睨み殺しそうな眼で睨んでいたが。
まる 1 日なにも食べてなくてさぞかし飢えているだろうと陽一に配慮したつもりだが、 エリオルの身体のままで食事してどのような意味があるのかについては、 それこそチェンジのカードの主にでも尋かないと分からない。 彼自身は普段よりは少し多めに食した感じである。

そのあとは単に彼と顔を合わせるつもりがないのだろう位に思っていた。 つい習慣で眼鏡を探していた手を止め、窓から庭を見れば陽一が立っている。 エリオルと目が合った。

「エリオルっ、俺の勝ちや!」

彼が勝ち誇ったように笑う。腕を伸ばして掌を上に向け、 そのすぐ上の空間を見つめつつ唱える。

「闇の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ。 契約の下、エリオルが命じる ──」

陽一の手の中に生まれた鍵が輝きだす。エリオルは目を見開いた。まさか? あわてて胸に手をやればそこに鍵はない。陽一の身体にそんなものはない、当然ながら。

「レリーズ!」

鍵が伸び、杖と化す。封印が解除されていた。力は精神に宿る。 クロウ=リードの力をエリオルが使えるのはエリオルとクロウが同一人物だからだ。 にも関わらず封印が解けたのは ──

(なるほど、これがさくらさんの「チェンジ」の力)

発動の仕方に感心する。 彼女のイメージとして魔力は身体のほうに付随して残したまま精神を入れ換えたことになるらしい。 チェンジのカードをさくらさんのカードに変えた時には クロウの魔力の気配はクロウの姿として存在していたか? まったく当人のイメージとは大切だ。

観月陽一は予知すら破壊してみせた。 過去クロウが対決するはめになった魔術師の中でも彼の力は下から数えたほうが早い、 それがどうだ、この「偶然」の愛されようは。 今やクロウ=リードと同等の力すら引き出しかねない。

(おもしろい)

この成行きは興味深い。 徐々に「厄災」が形を成し、もはや未来視すら必要なく。 おもちゃ箱をひっくりかえすのは誰にでもできる、元に戻すのはそうはいかない。

目をまるくするエリオルに満足感を抱きつつ、陽一が告げた。

「驚くのはまだ早い ‥‥」

杖を円を描くようにしてから突き立てる。

「契約者エリオルの名において、杖の向こうに潜みし汝に告げる。 観月が陰の名を借りて闇の力を引き出す、姿を現し、我に従えっ」

振り降ろした杖は一瞬にして黒い闇に包まれる。 いつのまにかエリオルの脇に摺り寄ってきていたスピネルが窓枠に乗ったまま冷たく評した。

「無謀ですね」
「ああ」
「どうするのです?」
「このまま見ているのもいい」

かいまみえる闇の力の本体の深遠な威圧感に怯まないのは大したものだが、 エリオルに向かってくるのだ、それくらいは当然の資質かもしれない。 小学生が夏休みの自由研究でペスト菌の培養に挑戦するようなことだったにしても、 それはそれで大切なことだ。
とはいえ放置もできまいと彼は小声でやや早口に唱える。

「闇の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ、契約のもとエリオルが命じる。レリイズ」

自分のイメージの中から鍵を取り出し、杖に変える。普段よりは小さ目の杖なのは仕方がない。 心体にズレがあるからそれはやむを得ない。

「シールド」

エリオルはスピネルの周囲にだけ防御盾を展開した。驚くスピネルを制し、

「そこに居なさい。これから起きることはスッピーやユエ、ケルベロスには危険だから」
「スッピーと呼ばないでください」

スピネルが口を尖らせた。 彼を後ろに残したままエリオルは窓から外へ降り立つ。

確かに陽一の身体をもつエリオルを攻撃することはできない。 しかし、エリオルの力を引き出し、自分のものするだけならば、誰も傷つかずに 「彼が考えるところの勝利に相当するもの」を手にすることができる。

(いろいろよく考える)

彼は感心した。


眠りの浅かったさくらが最初に気付いた。 ケルベロスの寝ている引き出しを叩いて開ける。

「ケロちゃんケロちゃんっ」
「‥‥ なんや ‥‥」
「ケロちゃんたら昨日と逆じゃない」
「‥‥? なんやこれ!」
「‥‥ なんですの?」

嵐にでもなりそうな魔力の気配に気付いたケルベロスの叫びで側で寝ていた知世も起き出す。

「知世ちゃん、エリオル君のところに行ってくるねっ」

パタパタと制服に着替えだしたところを知世が止める。

「あ、さくらちゃん、こちらをお召しになってくださいな」

昨夜のうちに自宅から届けさせた紙袋を差し出す。 それは新しいバトルコスチュームだった。僅かに苦笑いしながらさくらも素直に受け取る。

(いつものさくらちゃんですわね)

知世はにっこりと笑った。


「エリオル君、陽一さん!」

さくら、知世、ケルベロス、ユエが柊沢宅に着く。 まだ暗い空に膨れ上がる魔力は一目瞭然だ。知世の目にも見える。 渦を巻きつつ黒く抜けてそのあたりだけ星がない。

「おー、さくらちゃんか、約束は守ったでー」

チェンジの効力は生きており、エリオルの姿のまま宙に浮かぶ陽一。 下には陽一の姿で杖を地に立てるエリオル、その傍らにスピネル。小さい姿のままだ。

「それは牧師さんかー?」

さくらの衣装は首から十字を下げれば そのまま聖職服として通りそうな真っ白い学生服のようなものだ。

(そ、そうなの? 知世ちゃん)
(ええ、まあ)

ビデオを陽一からさくらに振りつつ知世がにこにこして答える。 神父様なのですが、あまり区別を御存知ないようですね、とは口に出さない。
途中で合流したユエが集まっているメンバーを見回して訊いた。

「ルビームーンはどうした?」
「きっと君のほうが良く知っていますよ、ユエ。 日本に戻ってきたとたんに一目散でしたから」

エリオルが笑いを堪えるようにして答える。

「桃矢は一昨日から合宿 ‥‥」
「そういうことですね」
「あ、秋月さんてば」

さくらは頭を抱えた。

「さくら危ないっ」

ケルベロスがさくらの前に飛び出し、 張ったシールドとケルベロスの羽ごとその闇の槍が貫く。

「ケロちゃんっ」
「ったー ‥‥ なんやあれはっ」

羽の隙間を貫いたのか、2, 3 枚羽根が欠けたくらいらしい。 ほっとしつつさくらは陽一に抗議。

「陽一さん!」

陽一が慌てる。

「ちょっとまて、俺は何もしてへんぞ?!」
「むしろ君が何もしていないから、あれが暴走しかかっているのさ」

エリオルが警告する。

「ケルベロス、ユエ。あれはお前たちの上に立つ力だ。 防ごうとしてもお前たちの力ごともっていかれるぞ」
「そんなん、どないしたらええねん?!」
「‥‥ こうすればいい」

ユエが撃ち出した力が闇の槍の腹に融けこみ、方向を変える。

「防ぐことはできなくても、向きは変えられる。 分かっていれば止めることもできるだろう。しかし ──」

皆の冷やかな視線が陽一に集中する。

「わーったっ、俺が悪かったっ、責任とったるからみんな下がっとれ、 まとめてエリオルにぶつけてケリつけたるさかい、しばらく近付いたらあかんでっ!」
「だ、だめだよっ!」

さくらの制止も聞かずエリオルに向きなおり、彼は深呼吸する。 気を鎮めないことには制御どころの話ではない。 暴れ馬の手綱を取るようなものだ。確信と自信をもういちど呼びさます。

「あれは俺に従うはずなんや ‥‥ いくで? 観月にまつらう闇の ──」
「さくらっ!」

彼の背後でケルベロスの悲鳴、 陽一の意識がさくらに向いた瞬間にエリオルが距離を詰め、 彼の後頭部に手を添えて叫ぶ。

「チェンジっ」

光に包まれたかと思うと、エリオルの姿をしたのが陽一の身体を抱えて地に降り立った。

「すこし、やりすぎですよ。さくらさんが怪我でもしたらどうするんですか」

エリオルがぐったりとした陽一に囁く。

「エリオル君 ‥‥ なの?」
「ええ」

闇の槍をジャンプで避けたさくらの問いににっこりと笑ってエリオルが答える。

「ちょっと無理矢理でしたか?」

強引に解除したチェンジの衝撃か、陽一は目を覚まさない。 上空の黒い嵐を指してにっこりとエリオルがさくらに告げた。

「あとは ── お願いしますね」
「ほぇ?」
「だってほら、僕の力はほとんどあそこに行ってしまいましたし。
‥‥ カードを封印すると思えばさくらさんにも出来ますよ。 似たようなものです。きっと」
「ほえええっ!?」


(大丈夫、きっとさくらさんなら出来ますよ)

と言って渡されたのはエリオルの鍵だ。

(それと、これはお護りに。中身は空ですが)

と笑いながら付け足すかのように取り出したのは一枚のカード。 表にキスしてからさくらに手渡す。

(さくらさんも彼らも無事戻ってこれますように ──)
(ありがとう、エリオル君)

クロウカードというよりは縁の色などはさくらのカードに似ている。 ただ中は白紙で何も描かれていないし、触った指が吸い着くかのように冷たい。 エリオルの力が「まったくない」ことを表しているかのようなカードだ。

フライで宙に浮かびつつ、星の杖を握りしめて空に渦を巻く黒い雲を見つめる。

(ほぇ? この子 ‥‥?)

だんたんと増えてきた闇の槍は言葉に直せば「あっちいっちゃえ!」だ。 「いじめちゃえ!」とか「ぶつけちゃえ!」でなく。

(泣いてる?)

もうすこしよく聞こうと近付く、とたんに増える槍、あわてて離れる。

(みんなでお話が ‥‥ できたらいいのにね)

エリオルから借りた鍵を掲げた。

「闇の力を秘めし鍵よ、真の姿を我の前に示せ、契約の下、エリオルの名において ──

呪文を唱えつつさくらは想う。ポケットに入れたエリオルのカードに意識を向ける。

(── エリオル君の願いをあの子に伝えて ──)

目を開けて、詠唱を終える。

「さくらが願う、レリーズっ!」

鍵はエリオルの杖の姿をとった。その杖を右手に収める。 とたんにバランスを崩して落ちかけた。

「ほぇ? お、重いよ〜」

さくらの杖がプラスチックのバトンならこの杖はまるで鉄の棒だ。振り回すどころでない。 星の杖を脇にかかえて慌てて両手でしっかり掴み持ち直す。

「大丈夫か、さくらっ」
「ケロちゃん! ユエさん!」

二人が昇ってきていた。二人のシールドが効かないのは分かっているのに。

「だめだよ、危ないよっ」
「あんなもん問題ないっ!」
「ケロちゃん」
「それより、あれをどうするんだ? あれはクロウの力の全て。 本気で暴れればお前も危ないぞ」

3 人をめがけて飛んでくる闇色の敵意の塊を的確に撃ち落としつつ、冷やかにユエが問い正す。

「ん、大丈夫だと思う」

ほお、といいたげにユエが瞠目した。

「ユエさん! これ持ってて!」
「わあ無茶な!」

ケルベロスの悲鳴も聞かずにさくらは星の杖を落した。 抱えこんでいたのではエリオルの杖が振れない。 さくらの下に回り込んでユエは無言でそれを受ける。 杖はユエの手の中で鍵の姿に戻った。

(星の鍵がなくても言葉は通じる ── よね、みんな)

目を閉じる。ポケットが温かい。賛意。

「シールドっ」

展開したのは自分のカードだ。大丈夫。

「入って!」

二人がシールドの後ろに下がる。

「本体というほどのものはあらへん、強いていえばあれが本体やっ」
「うんっ」


羽根を生やして浮かび上がるさくら、それを追いかけるユエ、ケルベロス。エリオルが目で追う。 雲の狙いが 3 人に集中し、地面の彼らの周りは静かだ。 エリオルはシールドを外す。

暫くして目を覚ました陽一がエリオルの腕から抜けだした。 まだすこし酔った感が残っているらしい。

「思い出した ‥‥ 歌帆ねえが言うとった。あの子が木之本桜か。お前らが鍛えとった」

ズボンをはたいて立ち上がった。

「ええ、まあ」
「そか」

上空では闇の雲がさくらの前の空間に鋭く引き込まれる様子が見てとれる。 難戦しているかとも思ったが、手伝う暇も罪滅ぼしする暇もない。 意外に早かった、それはさくらの力の強さとセンスを表すだろう。 やや嫌そうに陽一が息を吐いた。

「お前みたいに根性曲がりきっとる奴ならともかく。 ああいう子を闇の力に染めてお前らなにか楽しいか?」
「‥‥ 未来が定まったものならば、予知には意味がない」

エリオルが静かに言葉を紡ぐ。

「星が空に瞬く限り、夜は闇ではありません。大丈夫ですよ、さくらさんなら。
それを言うなら宮司の長子が闇の力を振るうというほうが無理ではないですか」

陽一はそっぽを向きながら、

「歌帆ねえに『鈴』を振らせるよりマシや。お前の姿借りとったし」

パタパタと陽一の肩にカラスが止まる。

「結局、制御できたんはこれだけかい」

羽根をなでつけながら訊く。

「喋れるか? お前」
「カウ?」
「あかんか ‥‥ まあ、ええか。八咫烏には足が一本たりないけど、お前、『クロウ』な」
「カア」
「そか、気に入ったか?」
「カア」

吹き出した闇の力からもぎとって作ったカラスにつつかれながら陽一が笑う。 そんな彼にエリオルが告げる。

「あなたのそういうところは好きですよ」
「お前も普段からそう素直なら信じたるんだけど ── 悪かったな、すまん」
「いえ、構いませんよ。面白かったですから」
「‥‥ だから可愛げがないつうんや ‥‥」
「カア」

陽一のため息に同意するかのようにクロウが一言鳴いた。


近付くにつれ視野一杯に広がる暗黒。 宙に開いた穴のようでも、向こう側は何もない。光も、音も。 抱く恐怖さえ映しだすものはない。 徹底した欠如に対して手を差しのべるは さくらの役割でなく ──

(エリオル君の代わりにはなれないの、ごめんなさい)

シールドの内側から出て身をさらし、二つのカードの名を呼ぶ。

「イレイズ、イリュージョン!」

エリオルから貰ったカードを取り出す。 さくらへの攻撃が直撃する寸前にさくら自身をイレイズの内側に消し、「誰か」の幻を残す。 その「誰か」は馴染み深い気配のカードを掲げる。

(── こちらにおいで。戻りなさい)

深みのある声を合図とするように闇の力が折り畳まれてカードに吸い込まれ始める。 その流れがイレイズの力をも剥ぎ取るころには青みを帯びた空には 闇はいくらも残っていなかった。 カードも落ち着いた光を取り戻す。さくらは緊張を解いた。大きく息を吐く。

ただ、まだ一枚のカードの許容量を遥かに越える力が カードの上にあたかも鎮座しつづけている。

「狭くてごめんね」

さくらが抱くようにカードを押えると溢れかけて静電気のように弾いていた光も静まる。 さくらカードと同じデザインに文字が浮かび上がった。

「『源』(オリジン) ?」

ポケットにしまうと、彼女は急いで地上に向かう。 下を見ると、二人が手を振っている。陽一も気付いたらしく、 肩にカラスを乗せてごめんと手を合わせている。 さくらもそれに応えた。


「はい、エリオル君のカードだよ」

エリオルの前に降り立つと、さくらはカードを差し出した。これはエリオルの力だ。
意外だという表情でエリオルが言う。

「それはもうあなたのカードですよ」
「うん ‥‥ でもね、私はこの子に『戻ろうね』って呼びかけたから。 エリオル君のところに戻りたがってると思うの」

さくらは手の平に載せて意識を集中する。

「仮の主さくらが命じる ── 汝の望む者を主とせよ」

浮かびあがったカードはエリオルの前で止まった。瞠目してエリオルが尋ねる。

「来るか?」

弾くような共鳴音。

「そうか」

エリオルはさくらを見る。彼女が頷く。エリオルはカードに手をかざし、一言。

「戻れ」

力と気配が彼の中に吸収され、カードは消えた。 周囲に溢れていた魔力のノイズがおさまり、周囲の微かなざわめきが戻る。 我関せずとクロウと遊んでいた陽一の表情が突然ひきつった。

「さくらちゃん、すまんかったな、この埋め合わせはそのうち、ほな、あと宜しく」

脱兎のごとく裏庭へ逃げ回ろうとする陽一の足を影が縫いつける。 つんのめりかけて手をつく。驚いたクロウはパタパタと 2 階のテラスの手摺へ。

「こらエリオルお前」
「そんなことで許されると思っているのですか?」

にっこり笑ってエリオルが宣告する。 エリオルの魔力に埋もれて気付かなかったが、近付く力の気配がある。 もちろんエリオルにも正体が分かっている。

「え、いいよ、別に私、」

さくらが割って入る。しかしとても 「仲良くしてくれればそれでいいんだけど‥‥」と言える雰囲気ではない。 空から見ていた時は仲良しに見えたのに。 あれが未来のこの二人の姿として得られる日が何時か来るのだろうか。 もどかしい。

「いやこいつは」

小声で唱えていた呪文を中断して陽一がさくらに弁明に入ろうとした時、カランと扉が音を立てた。 向こうから歩いてくるのは観月歌帆。

「観月せんせいっ!」

歌帆がさくらの喜んだ声に手を上げてこたえる。 そのまま陽一に視線を戻した歌帆は微笑んでいるが目が笑っていない。

「陽一君?」

エリオルに目線で挨拶したのち、そのまま入って来る。

「歌帆ねぇ、‥‥ なんでここに?」
「エリオルが居なくなったと聞いて、ね」
「なんでロンドンで探さんねん!」

陽一が悲鳴を上げる。 このタイミングなら居ないと知ってすぐ日本に飛んできたはずだ。

「あら、ここに居ると思ったんだし、実際ここに居たんだし?」
「非常識すぎや ‥‥」

どうにでもしろ、とばかりに地面に座り直す。

「不肖の従弟がご迷惑をおかけしまして」
「いえ、楽しかったですよ」
「それと先生から伝言。早く戻ってらっしゃいね」
「ああ」

「陽一君? お爺様が心配してらっしゃるわ。帰りましょう?」
「‥‥ った。しゃーない」

きっとエリオルを睨む。

「今回は痛み分けにしたる! 次はそうはいかんで!」
「カアッ」
「はいはい。がんばってくださいね」
「てめーのそーゆーとこが気に入らんっ」
「カアッ」

歌帆に引きずられて去っていく陽一をみつめつつ、さくらは思った。

(もしかしてまたこんなことがあるの ‥‥?)

その内心の思いが聞こえたかのように知世が微笑む。 右手にはビデオが回ったままだ。

「大丈夫ですわ、さくらちゃん」

なんとなくほっとしたところに喜び顔で彼女が付け加える。

「カードキャプターさくらちゃんの出番が増えますわね」
「と、知世ちゃん ‥‥」

さくらはがっくりと肩を落した。


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