Genesis u:1 「明日」
"TOMORROW"


ヒグラシの音が止んだ。

半ば開かれた障子の向こう側に見える庭に老人は意識を向けた。 残暑の強い日射しは、 まだ緑の濃いモミジをあいかわらず白と黒にはっきりと塗り分けている。 そよぐほどの風もなく、葉の擦れ合う音もない。 セミの声が消えたのが耳に障ったのはそのせいもあったか。 この「虚」というものは ──

と。意識が「人の居る世界」に引き戻される。 廊下を渡る足音がある。彼が倒れてからすっかり居着いた孫娘のユイのもので、 彼の部屋を訪ねる明瞭な意志と珍しいことに微かに動揺が伝わってきた。
かようにして世界は動いている、 外に目を向けてみても、もう単なる「庭」だ。

(あの男でも来たのだろうか?)

渡り廊下の軋む音にまとわりつく気配はどこか重たい。碇シンイチロウは思案した。 昨日あたり日本に戻って来ていたはずだ。 南極のレポートを自分の手で持参するような殊勝な男ではなかったと思うが、 何も考えることがないような顔をして彼にもいろいろ思うところがあるのだろう。 六分儀ゲンドウという男は彼としてはあまり顔を付き合わせていたくない人間の範疇に入り、 そういう意味で、ユイが予定外のことに動揺するのは分かる。

布団から身を起こし、脇に除けてあった丹前を被る。 孫娘が用意したものだが、どちらかといえば実はやっぱり暑い。風が抜けてくれればともかく。 身体の各部がすこし軋んだが、心臓を含めとりたてて問題はなさそうだ。一息つく。

「おじいさま ‥‥?」

障子に影が映る。

「おお、起きとるぞ。入れ」
「失礼します」

入ってくると同時に彼女が障子をぴたと閉めるのに彼は目を細めた。 盗聴対策にはいろいろあるが、防磁された「箱」に優るものは少ない。 障子が閉じられた瞬間にこの部屋は VHF 以上 SHF までの全ての電波が外部から遮断されている。 あの男の突然の訪問、といった可愛げのある話ではない。

「どうした」

彼は無意識のうちに袷を整えた。

「20 分ほど前に南極で地震、ブエノスアイレスで震度 8、と。 ‥‥ 葛城隊のアクセスは通りません。 ゲヒルンの緊急隔離システムも作動しているようで、 南極上空を通るすべての衛星の回線が『故障』しています。たぶん ──」

ひやりとしたものが背中を走る。 4000 〜 5000km 離れた南米でその規模の余波だ。核爆発でもこうはならない。

(いや ‥‥)

情報を隠蔽する必要があると思ったのなら、答えは明らかか。 胸中に沸きおこった複雑なものもあるが、今の時点では関係がない。 彼は疲れたようにつぶやいた。

「事故か」

もちろん孫娘も同じ結論にたどり着いているだろう。 そこまでの計画ではなかったことは彼女のほうが良く知っている。

「この時代に具現化しようとはな。それで衛星からの映像には何が映っていた?」
「バックアップには厚い雲で覆われている以外は何も」
「そうか」

障子を通して和らいだ光に目を移す。 姿でも映っていればと思ったのだが。 思念として一つにまとまるには至らなかった神の力は単なるノイズにすぎず、 すぐに雲散霧消するだろう。

(もう、暫くは見られまい)

せっかくの機会だったが。各方面の連中のことを思うに 苦虫を噛み潰したような顔やら無念そうな顔やらが容易に浮かんでくる。 ゼーレのネットワークがこの件で沸騰するまえに 神が踏みしめた足音を聞く暇くらいはあるか。 半日もすれば地震は日本に届く。

ふと彼は脇できちんと正座するユイを見つめた。 寝ている自分を起こすつもりでいるほどの気は孫娘にしては珍しかった。 膝の上でにぎる彼女の拳は白く微かに震えている。口数も少ない。 そっと彼女の肩の上に手の甲を触れると、それを反射的に弾くように肩が振れる。 彼は弾かれた右手を目の前に掲げてから、ユイに視線を戻す。

「反発するほど気が濁っている ── ユイ。何を動揺している?」
「‥‥ この事故が明けた時のことを思っていました。 暴走した S2 機関が基になったとしたら、 そのエネルギーが『形』を取りそこねて発散したら、 大部分は宇宙に抜けるとしても 地表にそって吹き流れていく分だけでも周りの被害は ‥‥」
「そのために南極のものでテストしている。周囲 5000km の氷原と海が壁になる」
「大陸そのものが無くなるほどの事故は想定されていません」
「そうだろうな」

なんとなく彼は警戒感を覚えた。何事かを踏み固め、積み重ねるような話の成り行きだ。 が、圧す力となっていないのに彼は憐れみを感じざるをえない。 これが精一杯なのだろう ‥‥ その精神の方向性は確かにユイのものだが、 自らの気を世界から切り離してしまっていては、いかにも蟷螂の斧だった。 表情を読んだのか彼女が口をつぐむ。

「今は聞こえまいが ‥‥」

動揺、萎縮。怯えている。何に? 彼に思い当たる節はない。彼は首を捻った。

「まず ── 外を見よ。世界はそこにある。その手に触れているものを思い出せ。
思い悩むのは正しいが、世界を見くびるのはよくない」

ユイの表情からは、やはり聞こえていない。聴いてはいるが ‥‥ 拒否ではない。単なる遮断。 むしろ、本人は聞こえてないことに気付いていないのか。

「‥‥ ひとつ訊くが、南極の連中の失敗にお前がなにか関係するのか?」
「明日、関わるはずでした ‥‥ もしかしたら、いえ、申し訳ありません」
「『もしかしたら』止めることができたか?」

咎めるように強調する。

「今日は止められても、明日は、明後日は止められなかったろうよ。 いや、まだ違う。それなら『後悔』を纏う。お前の感情は『恐怖』に近い。
お前にそんなに恐いものがあったのか?」

祖父の心無し驚いたような声にユイはぎこちなく微笑みを返した。

「はい。恐かった ‥‥ です。それに、恐いもの、いっぱいありますよ。
おじいさまとかおじいさまとかおじいさまとか」
「‥‥ そうか、ユイには祖父が 3 人居るのか」

シンイチロウは肘の枕を指で弾いた。
首を傾げてユイが答える。

「理論上は何人でもありえますね。養子縁組で ‥‥」
「それに本当にもうすぐ増える ‥‥ あの男に『祖父』は居なかったか」

精神の扉が開いた。 心を落ち着かせれば周りも見えてこよう。 シンイチロウはほっと溜息をついた。 外はひっそりと静かで、セミは鳴きやんだままだ。障子に当たる午後の日もまだ強い。

(暑い。障子が灼けるな ‥‥)

ふとそんなことを思う。深呼吸とともに意識をユイに戻す。

「ユイ。天も、地も、人も、お前に悪意を向けるものはない ──
我々はお前が好きだよ。 たとえ、お前が自分自身を否定することがあっても、その瞬間でさえ。 お前が存在することによって変わる世界のありようというものを、我々は肯定するだろう」

箱根に貼り付いたままだろう六分儀ゲンドウのことを思う。 彼は嘆息しつつ心の中で罵った。 本来ならこれはあの男の仕事だろう。いまこそあの男はこの場に居るべきなのだ。

「お前が抱えている毒はお前自身の影だ。誰のものでもない。 毒を消化するのを我々は見守ることもできるが ‥‥ もしお前にその時間がないなら辛くても手を延ばせ」

直と見据える。

「‥‥ 事実に限っても、南極隊の基地は使用不能になりました」
「だろうな」
「基地の再建はできるかもしれませんが、私には出来ません」
「いまのところは、そうだ」
「基地を破壊するほどの出来事に、私が関わってはならないはずです ‥‥」

途方に暮れた、迷い子のような表情で彼女が語る。 暗喩はもう少し大きい話なのだろうが、 要するに意味するところは 悪戯で 119 番を呼んだら実際に消防車が 2,3 台来てしまったようなものかと彼は思った。 これが何故それほどの衝撃となるのか、良く分からない。

「別に構わないよ。ユイ。お前が何を引き起こそうと。言ったろう。 何をしても構わない。必要とあれば我々はお前を止めるし、 止められていなければ、それは必要がなかったからだ。
‥‥ それが正しくないと思うなら、これからの行動で正しくあればいい」
「私には、止められませんでした」

その返事は恐ろしいほど感情が消されていた。 かえって裏の感情が透けてしまう。彼は微笑んだ。拗ねている。

「知らなかったのだな ‥‥ 消防車が来てしまうことに」
「え?」
「あ、いや、悪戯で 119 番を呼んだら実際に消防車が 2,3 台来てしまったようなものか と置き換えて考えていたのでね」

瞬き 2, 3 回の間に彼女の表情がめまぐるしく入れ替わる。 不満と、苦笑と ── 二人して吹き出す。
呼吸が収まってから彼は尋ねた。

「‥‥ もう、大丈夫か?」
「え、あ、はい」

この程度で動揺するようではまだ早いか。 だが、どうせ 2 ヵ月もすればユイの手に渡るものだと見切りをつける。

「一週間、碇家の全権パスワードを貸す。好きに使え」

彼女がはっと顔を上げた。視線が宙をわずかにさ迷うようにしてから彼女は頭を下げる。

「‥‥ ありがとうございます」

その逡巡に彼は答を返す。

「私が今すぐ動けばそれはゼーレの利益のためということになる。 何がしたいのか知らないが、おまえの目的には適うまいよ。
私をひっぱりだしたければ、適当な窓口を用意することを考えろ」
「はい」

ユイのまとう色が白く変わった ── かのように彼は感じた。 気配が穏やかに薄れ、その儚く微笑む表情はようやく普段のものだ。 それは彼女の気や思惟がこの場から離れて問題解決に向けて淡く広がったということでもある。

(もう、問題なかろう)

広がった澄んだ気は世界の痛み、悲鳴に敏感に反応する。 世界と共にあるかぎり、行動に無理が出ない。それはとても大切なことだ。

「おじいさま?」
「あとは任す」

ユイがこの部屋に入って来てから感じていた肩の重さも抜けた。 彼もその重みは決して嫌いではないが、 ここしばらく無いことに慣れていた彼の身体には少し重量感があり、 疲労感も残る。そう告げて彼は布団に入った。

一礼してユイがそっと退出する間、彼は横になったまま考えた。 ユイとゼーレの利益が衝突することはあるだろうか? すぐに彼は首を振った。 彼が見るにゲヒルンはともかくゼーレが直接ユイに干渉することはないはずである。 そういう意味では、ユイにフリーハンドを与えてかまわない。 一瞬ちらと不安がよぎったが、おそらく彼の気にする領分でないと決め込む。

南半球が吹き飛ばされたとてどれほどのことがあろう。 ゼーレの資産は北半球に集中している。 それにゼーレの計画からは外れるにせよ、これも予定のうちである。 預言の書には一度は世界が破滅しかかることが記されて ──

彼は瞑目した。予感があった。

── つまり。書のとおりなら、明日、世界は半壊する。
何が理由でかは、1 時間もすればユイが計算するなり予測するなりするだろう。


次回
エージェント

[目次] [日誌]