「ふう」
夜中、独り。キーボードを打つ手を休めた。 すでに夜も 12 時近いというのに、微かに伝わる空気に寝静まったところはない。 ガラスに映った、がらんとした室内の様子が少し邪魔をしていたが、 街の暗闇の中に人の熱気が感じられた。
彼女は思いついてディスプレイに街の電力消費量の様子を呼びだしてみた。 街が起きているのか寝ているのか、それで分かるだろうか。 電力消費のグラフは呼び出せたが、対照すべきデータが不足していては 何が分かる訳もなく、人知れず苦笑を漏らした。
「来年の今頃なら ‥‥」
まだ街ができて 2 ヶ月、特殊な状況にあった先月も除けばデータなぞあるはずもない。
1 年。1 年たてば資料も集まるだろう。──
その間ずっと普通の日常生活が続いてさえいれば。
もう外乱要因はないことになっていた。使徒総数 17 体、
15 年ものブランクを置いたと思えば、わずか半年あまりで残らず現れた。
彼らとの賭は終った(多分!)。これからは人間だけの問題(そのはずだ!)。
そして残念ながら、街を揺るがす事件は、次から次へと、
まさにこの場所から沸き昇ってくるであろう。
たとえば手元の招集礼状。碇シンジの、惣流アスカの。 今はエヴァンゲリオンは全て補修下にある(ことになっている)。 戦力再編成その他の理由でチルドレンはエヴァの訓練さえ延期されている。
エヴァが表向きの役割を終え、ゆえに疑問に思われることのない招集礼状の遅延。
2 週間ばかりの休暇の終りを告げるそれ。
準備がまだだと、ひたすらまだだと、自分に言い聞かせるようにして手元に留めておいた、
それ。
さらに今のところは綾波レイは問題外ともいえた。 記憶の混乱のため、保護観察下にある彼女が再びエヴァに乗る資格を持てるかどうか、 あるいは乗るのは依然としてネルフの幾人かの想像の範疇のことでしかない。 もちろん手駒が彼女のみになった時は事情がなんであれ、 それは現実のものとなる。
「どちらが幸福か ‥‥」
チルドレンの中で、現在只今の時間、
あるべき姿、正しい姿で過ごしている者はいない。
碇シンジは少なくとも二人が正しい姿で過ごしていると思っているだろう。
しかし、惣流アスカはそれを知っているし、綾波レイはそれと知られている。
ゆえにこのままで終ることはないだろう。いつか、この捻れが正される時が来る。
正した先も、やはり正しい姿では有り得ないのだけれど。
ならば、このままではどうだろうか、
「と、思うのは、‥‥ 許されない、」
ふと気を抜けばそう思うこともある。まったく彼女らしくなかったが、 その麻薬のような考え方そのものが彼女 ── 碇ユイの罪に対する罰といえた。
つとコーヒーメーカーに手を伸ばし、コーヒーをカップに注ぐ。
手が止まると同時に、思考も一ヶ所をぐるぐると回るだけになったことを自覚したから。
先程まで書いていたメールは すでに LCL 化の内定していたミュンヘン、北京、メキシコシティー三市間の調整の件で、 いつもながら素早い応対のドイツと、 価値観のずれたあたりを答える中国、 本部に反抗的なアメリカを同列にならべた スケジューリングの無茶は承知の上ではあったが、 ミュンヘンが固まるにつれて残りの二者の分も滞らなくなってきていた。
「これは明るい見通し、‥‥‥ に入る ‥‥ な」
なにしろどんな件でも先を見通させるとろくなことが思い浮かばない。
今年も残り僅か。
何をしていても、そんな風に振り返り、
そして先を見通すのはやむを得ないことではあった。
時報が鳴る。2016 年 1 月 1 日、午前 0 時 0 分を告げる時報。
そしてそれと同時に窓の外では花火の音、歓声が遠くに。
彼女は時計の秒針が一目盛ずつ正確に回っていくのを眺め、そして思う。 子供達がもしまだ起きていれば、 あるいはこの正時にセットしてあった留守電が鳴り、そしてそれを聞くだろう。
手が離せなかった時のための、万が一の、‥‥ いや、
ほとんどそれに頼ることは確実だった処置。
夜中の肉声はあまりにも演出色が強く。もちろんそれが彼らに伝わることはないにせよ、
彼女にとっても限度を越えた欺瞞となったであろう。
去年とは全き違う、今年こそは幸あれと願う、
── そんな資格は無いのだ。もちろん。 前方に目を向ければ、自分の罪がいやがおうにも眼に止まる。
なした罪、やるべきことをしなかったことによる罪、罪を見過ごした罪。
眼を、耳を塞ぎたくなる気持ちを抑えこみ、毅然と前を向く。 素朴なる六分儀ゲンドウと出会う以前に自然と揉まれ鍛えられてきた、 その意思の力で再び封じこめる。微笑みを浮かべたままで。
しかしそれでも ‥‥ 今年一年の願いを、今、
せめて罪のない子供達のために、今年、そしてきたる未来の平穏と幸福を。
人工進化研究所にあって人類補完計画の鼎の一脚をなす女性の、
これは年頭の祈り。
彼女は冷えきったコーヒーを一口すすり、真剣な表情で再び端末に向かった。
[目次] [日誌]
作者コメント。 新年、明けましておめでとうございます。 幸いなる年でありますように。