Genesis y:16.4 何時か来た道を
"Her action"


レイがこの場所に来たのは、これで二度目だった。

「‥‥‥‥‥‥‥」

第三芦ノ湖。
旧第三新東京市 ── 旧市の東半分に開いたクレーター、 二人目の綾波レイの墓標。
その由来にも関わらず、湛える湖水は左手遠方にある筈の芦ノ湖と同じ澄んだ濃紺の水。 ただ、足もとの砂利は半分がコンクリートの破片、半分は良く分からない金属の破片で、 角が取れた石ころのたぐいはあまりない。それが芦ノ湖と違っていた。
芦ノ湖側から右の谷間に沿って緩やかに吹き抜ける風が湖に小さなうねりを作り、 それが足元へ曲がって寄せるのをレイは静かに眺めていた。 彼女が今立っているところはもとは第三新東京市外周道路の一部で、 付け直された道路は少し山寄りを走っている。
対岸は旧市の中心街で、高層ビルが建ち並んでいる。 爆心地に近いながら、爆発当時は地下に避難させてあったビル群はほとんど無傷。 もっとも、街そのものが新市に引っ越してしまったため、人気は無い。 彼女がもと住んでいたマンションも半分は他のビルに隠れながら、 すこし左奥に見えている。

「‥‥ 綾波」

シンジの声にレイは振り返った。
彼はバス停から幾らも離れず、 つまり湖岸の彼女からは 10m ばかり下がったところに立っていた。 シンジの背後の山縁を透かして陽が射していて、レイは手をかざした。

「‥‥ 何?」
「え? ん、その、‥‥ ごめん」

軽い狼狽の走るシンジを眺め、微笑む。 自分だけの世界に少し入り込んでしまったらしい ‥‥ どこかおいてきぼりにされて拗ねる仔犬のような表情のシンジを見つめながら、 レイはそう思った。

「碇君?」

気付かないふりをして聞き返す。少し、意地悪。
ようやく言い訳を見つけたシンジが口を開く。

「‥‥ ここは、寒いし、行こ?」

昨日、雨がふったばかりで気温は下がっていた。
レイは足元の黒い土に一瞬、目をやってトンと足で叩く。

「‥‥ 上から、見たいな」

来たばかりで「帰ろう」とは言い辛かったのだろう、シンジの言葉は「行こう」だった。 その言葉尻を捉えるようにして、レイは彼の背後の山を見上げた。
シンジもつられて山頂を見上げる。

「ロープウェー、あったよね、‥‥ でもここからだと遠いかな ‥‥?」

シンジが記憶を頼りに出した案を、レイはそくざに却下した。

「‥‥ あれでいいじゃない?」

指さす先には箱根登山道入口。
シンジが考え込むのを、レイは少し不安気に眺めた。 地図も何も持って来ていない。 そもそも服装自体がレイは学校の制服。
シンジが彼自身の格好、次いでレイの服に視線を移し、登山道入口で目を止める。 道路を渡り、山道の先を覗きこんで、レイに振り向いた。

「行くよ」

シンジの返事にレイは道路を渡り、彼に駆け寄った。 シンジの腕を抱え込むようにして一緒になって先を覗く。
見れば、道幅はそこそこ広い。ただ、両側から木と草が被さってきていて少し暗い。 道の傾斜はそこそこあり、走って登るにはやや辛いような感じだったが、 ともあれ、レイは半ばスキップするようにシンジの先にたって駆け上がって行った。

「碇君?」

最初の曲がり角でふと振り返ると、シンジはまだ道路のところに立ち止まって、 レイを呆然と眺めていた。

「‥‥ え? ‥‥ え、うん、ちょっと待ってよ、綾波」


二つ三つ道を曲がるとそろそろ山道らしくなってきて、 レイも駆け上がることは無くなった。
道幅も二人がかろうじてすれ違える程度まで狭まってくる。 両側から被る木々の落す葉が道の両脇に溜るが道の真中には無く、土が見えている。
ある程度のハイカーがいるらしい。
後ろを振り向けば本当ならすぐ下に湖が見えるはずだが、覆い被さる木々に隠れていた。 道すがら眺められるのは両側に立つ杉くらいなもので、 レイの歩調は少しずつ遅くなっていった。
シンジが追い付く。

「綾波 ‥‥」

その問いかけに、レイは素直に困惑を返した。 考えていたより少し疲れていた。 見通しが甘いということはもう十分に分かっていたけれど、まだ何も見ていない。 道がすこし平坦になったところで立ち止まる。
通り抜ける風で葉が擦れる音、蝉の鳴く声があたりを満たす。

「‥‥ 綾波 ‥‥ 戻る ‥‥?」
「もう少し ‥‥」

レイはシンジから視線を外し、下を向いたまま答えた。

「‥‥ ちょっと待って ‥‥」

レイは目を閉じ、シンジの袖を掴んで一つ深呼吸を入れた。 身体の疲れがすっと抜けて行く。 北側斜面の陽の当たらない、少し肌寒い空気がほてった身体を冷ます。

「もう少し、‥‥ 行きたい」
「ん、‥‥ 多分、頂上もすぐ、だと思うから ‥‥」

視界はまだ開けない。しかし、それらしいピークはシンジの視線の先に見えていた。


「山頂まであと 200m」
案の定、しばらく登ると頂上も近い旨の標識が出ていた。 そこは展望台になっていて、 第三芦ノ湖が第三新東京市をえぐりとった様子が眼下に広がっていた。
セカンドインパクトからちょうど 16 年、 常夏の気候に慣れることを覚えた森の木々は部分的に紅葉を見せ、 その逞しさを示していたけれど、湖岸をとりまく部分では多くがなぎ倒された姿のまま。
爆発が起きてからまだ三ヶ月たらず、傷を負った森と旧市の無傷のビルの対比。

「すごい、のね ‥‥」

自分が陰に入ったのを感じて、左を振り向く。 シンジが同じようにして湖と旧市を見つめていた。 逆光の中、シルエットになって彼の表情は分かり辛い。
目を彼の向こう側へずらすと、 箱根外輪山の上に富士山がそびえたっている。 この展望台は、もともとは芦ノ湖から富士山の方を見渡すための展望台だったのだろう。 そして、その富士山の上に沈む太陽、手前にシンジ。
シンジがレイの視線に気付く。

「‥‥ 何?」
「‥‥ ううん、‥‥ ありがと ‥‥」

礼を言う。 ここまでついて来てくれたことに対して。 連れて来てくれたことに対して。
シンジが微笑む。

「僕は、ここに来るのは初めてなんだ ‥‥
すぐそこまでは来たことあるんだけど」

レイは首を傾げた。
シンジが続ける。

「まだ、この街に来た頃、エヴァに乗るのが嫌で、ミサトさん家に戻るのが嫌で、 父さんの言うこときくのが嫌で、‥‥ 学校行っても、どこにもいるとこなかったし、 それで、‥‥
綾波は知ってるのかな?」
「‥‥ ええ。あの時に?」
「そう。行くとこ無かったし、それで、‥‥ ここまで来てたんだ。
あの、」

シンジが柵に凭れ、裏の山を見上げるのに合わせ、レイも山に目を向けた。

「山の裏側まで、‥‥ 来てたんだ。
また、来るとは、‥‥ 思わなかった。
‥‥ 思い出すの、嫌だったし」
「‥‥ ごめんなさい」

罪悪感。レイは謝った。そういうところだとは、知らなかった。
シンジが目を見開いて振り返る。

「ん、と、そうじゃなくて、来ても平気なんだなあ、って、だから ‥‥
ありがとう。
大丈夫なんだなあ、って分かったから ‥‥ だから、‥‥
‥‥ 半年くらい、前だったっけ? あれ ‥‥
「そう、かな、そうね ‥‥ それくらい」

再び、湖へ目を戻すシンジ。

「まだ、半年、なんだな ‥‥
綾波が、いたから。‥‥ 綾波が、いたから ‥‥‥ あの四角い奴と戦った ‥ のに ‥‥」
「どうして、泣いてるの?」

シンジが息を飲んだ。
レイは微笑みかけた。

「‥‥ 私が、覚えているもの。
二人目の私が ‥‥ 他人として眺めるのは変な感じ ‥‥」

柵を握る手に力を込める。
手が覚えている。レバーの感触。
使徒にエヴァを渡さないための、自爆装置。
それだけの知恵があった時の、対策。
でも、使徒はそんなこともしなくて、まっすぐ私の中に入ってきた ‥‥
振り返り、レイはぎこちなく微笑んだ。

「だから、笑ってていいと思う。
私は、生きているんだから」
「そうだ ‥‥ ね、ごめん」

しばらく、二人はそのまま湖を眺めていた。

「帰りましょ」

レイはもと来た方向を振り返って、立ち止まった。
展望台はまだ明るい。富士山の裾の少し上に赤くなった太陽がこちらを照らしている。
しかし、‥‥ ここまで登ってくるのに使った山道は様相を一変させていた。 一寸先は闇。まさにそういった雰囲気の道に趣を変えていた。
途中、何回か分岐があったはずで、道に迷えばどうなるか。

「どしたの ‥‥ って ‥‥‥ うぇ」

シンジも不審に思ったのか、レイの視線を辿って呻いていた。 二人は顔を見合わせた。もちろん懐中電灯のようなものは持っていない。

「電話 ‥‥ する?」

レイは、シンジを見上げながら尋ねた。

「それはちょっと ‥‥」

シンジの言い分も分かるので、レイは黙った。 確かに、この状態で助けを呼べば、帰ってから何を言われるか分かったものではない。 ‥‥ 特にユイに。もうすこし危険な状況になっていればともかく。
シンジがレイの手をとった。

「別に危いところもなかったし、‥‥ 大丈夫だよ。
‥‥ 少なくとも、綾波は」

レイは少し、赤くなった。

作者コメント。 懐中電灯も持たずに山に入った場合、日没一時間前には下山しましょう ‥‥ :-)
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