Genesis e:0 時の間隙
"GAP"


弐号機の内蔵電源が落ち、エントリプラグの中は確かにブラックアウトしていた。 アスカは呪う。自分を嘲う敵を、役立たずの弐号機を、なによりも自分自身を。 眼光だけで敵が殺せるなら、一瞬にして敵を殲滅したことだろう。 しかし彼等はその怒りを知りつつ軽く嘲い飛ばす。

ありえないはずの弐号機の再起動さえも希望には至らない ‥‥。 逆に、外界を見通す視野と同時に 弐号機が必死になって遮っていた痛みを容赦なくアスカに注入した。 崩れかけた彼女の視界に弐号機を引き裂き続ける彼らの嘲りが映る。 彼女のあがきは言葉や表情でわざわざおとしめるまでもない。 敵意さえない。無関心。

喰われていく弐号機の破損は 神経が焼け切れよと云わんばかりのシグナルとなってアスカの身体を駆け抜ける。 モニタされているデータはしごく冷静で客観的だが、 データの示す事実に身を浸していたなら ‥‥
シルエットをにらみつけることで維持していた集中力が 裏側からそぎ落とされるようにみるみるうちに薄くなり、 苦痛に屈服し、気力でリンクしていた弐号機との繋がりが切れるころには 横隔膜が収縮しきって自発的呼吸が止まる。


補完世界のありようを定める主要なファクターは二つある。 一つは敵意である。補完世界でもっとも支配的な感情。 もうひとつは、補完世界と現実世界は互いの鏡にすぎないという事実。

好意と敵意と。どちらが人の心に多く潜むだろう?

半々? とんでもない! たとえば「礼儀」は、もともと敵意のないことを表すプロトコルだ。 これはア・プリオリには敵意が好意にまさることの現れで、 世界が好意に満ちているなら、手間暇かけて掲示するまでもない。

この事実は見た目よりも恐ろしい。避けようもなく綿々と続く敵意の中にある ── それはもはや呪術でさえある。 蠱法。猫を闇に閉じ込め共食いさせる。生き残った猫には魔力が宿る。 何も考えずに融合する危険とはそういうことだ。
それは惣流=キョウコ=ツェッペリンも承知していた。 彼女が恐怖に飲み込まれたのは それに触れてみたいとつい好奇心を出してしまったからにほかならない。 これもまた生物の特性の一つだろう。 能動的な事件で本人の心構えがあった分だけ、 キョウコの心のもっとも大切な部分は辛うじて救い上げるのに間に合い、 取り込まれた部分は碇ユイの事故よりは少なくてすんだ。

後にキョウコの関係していたシステムには「量産型」の名が与えられた。 その名には表面的なもの以外に少しばかりのアイロニイが込められている。 神は唯一絶対であり、神は「量産」されてはならない

弐号機は魂の半ば欠けし存在。自律して動くことはない。ゆえに真の神ではない ‥‥

補完計画最終ステージ、 綾波レイの幻影はエヴァンゲリオン弐号機の残骸の中、 半壊したエントリプラグの前にも現れた。 彼女は空のエントリプラグから滴る LCL を手の平にゆっくりとすくい上げ、 何かを確認するように僅かに首を傾げた。

その場からついと消えた時、 その幻影の表情には珍しく何かしらの感情があった。


痛みが彼女の周りを飛び回っている。

周囲の地面は砂地質で赤く、見た感じべとっとしていてあまり見目は良くない。 辺りは視界の効かない、白い霧に優しく音もなく覆われている。 彼女自身は膝を胸に抱く格好で小さく丸くなって横になっていた。 その姿勢のまま、やや集中力を欠きながらも彼女は思いめぐらす。 何がどうなったのか、といった即物的なことではなく ‥‥ もう自分は死んだのだから。 いつのことだったか、すでに忘れかけていたこのあたたかさがなんだったかを ‥‥ 漂う思いとともに彼女は記憶をたどって 10 年を遡った。

「ママ? ママ! ‥‥‥ ママぁ! ママ ‥‥ ママ ‥‥ ママ ‥‥‥‥」

ゆったりとした拍動に合わせるような呟き。 こぶしを握り締め、さらに小さく丸まる。 今は狂気にも侵されていない、確かな彼女自身。 忌まわしき事件が記憶の中に刻み込まれることのないよう ‥‥ 彼女はゆるやかに逃避する。 彼女が再び微睡むとほどなくして薄い繭が彼女を包んだ。

安らぎの中に昏々と眠り続けるアスカは知らなかった。 眠る彼女の周辺には、現実世界での状況を反映してかなりの敵意が満ちている。 再び心の壁が失われつつある世界で、その敵意は次第に強さを増す。

無限に続くかと思われる悪意の流れにさらされ、 繭の表層は少しずつ失われていった。 内側から少しずつ補われていたものの、紡ぐ速さは失われる速さに届いておらず、 悲嘆の空気が繭と敵意の間にすべりこむ。 敵意が密度を増すのに歩調を合わせるように悲嘆も深まる。

「‥‥ ママ?」

アスカはなおも眠り続ける。


高圧の毒気は薄くなった繭を黒く染め、ついに内へと浸み入る。

悪意という名の現実は微睡む夢を悪夢に染め直し、 それを反射的に拒否したアスカが跳ね飛ぶようにして起き上がった。

「ママ?」

さあっと何かが退く気配。周囲を見回しても、辺りは静かでもう人気はない。 心臓の鼓動は寝起きにしては速く、まだ生きていることを実感する。 何があったかを思い出せば、 夢の中に比べれば現実は常に失望に満ちていた。 地についた左手が血の色をした砂を握り締めた。 そういえば左側に視界がなく、右手もたれさがったままでまだ少し痛みが残っていた。

感情が戻るにつれ胃壁が裏返るような吐き気に襲われる。 触れた悪夢の語ること、その程度のことはアスカも分かっているのだ。 そんなことは些細なことだ。バカシンジとは違う。絶対に。

(‥‥ んなことでっ)

最初から空の胃には胃液も少なく、 チアノーゼを起こしかけるころには跳ね上がったままの横隔膜も落ち着き、 ようやく深呼吸を一ついれた。 心と身体が思う通りに動きさえすれば ‥‥

立てない。腕にも腰にも力が入らない。 怪我という訳ではないらしく、指は動くし体重が乗っていなければ肘も膝もちゃんと曲がる。 体重を掛けて崩れるわけでなし、痛みも痺れもない。 手で足を叩けば普通に叩かれた感触もちゃんとある。 身体の状態をチェックしながら、実はこういう状態をなんと呼ぶか心当たりがあった。 ただ彼女にはそれを認めるつもりはない。論外。

気力の大部分が心の深底を流れる孤独の恐怖にひきずられている。 時間が止まったような環境だからまだ何事もないだけだ。 横になるという気分でもない。夢がつながらないことは直観的に分かっている。 悪夢との戦いが待っているだけのことだろう。逃げこむ避難所はない。

八当たりするもの(いちおう本人はそのつもりではなかったにせよ) を探して目が周囲をさ迷い、人の気配を感じてちょうどいいとばかりに振りかえって ビクと引きかけるところをかつてのプライドにかけて押しとどめた。

「あんた ‥‥」

その声は自分でも驚くほど弱々しく、アスカは後半を飲み込んだ。 とても他人に聞かせられるようなものではない。 その人物はと見れば、その人物にしては珍しい表情をしていた。 ほとんど無表情なのは相変わらずだが ── ?

何かを語らいたいとは決して思わない相手だが、 かといって敢然と無視できる気はしない。いや、せっかくの機会を無視したくはない。 あれがせっかく(なんだかよくわからないが)弱みを見せてくれているのだから。 逡巡や葛藤を見せれば嘲笑われるだけだと思うだけに戸惑っている暇もない。 立ち上がって視線の位置を並べて一応の精神的立場を整える。

「ここは ‥‥」

詰問するつもりだったがうまくいかない。内心で舌打ち。 もっともその人物の方も聞いているのかいないのか。

「どこよ?」
「LCL の海。AT フィールドを失った、自分の形を、境界を失った世界」

淡々としたところは変わっていない。瞬間的に反発を感じる。

「自分を?」
「‥‥ どこまでが自分で、どこからが他人か、今のあなたに分かる?」
「あんたの言うことは分からない。だから、あんたはあたしじゃない」

即答し、言葉の切れ味が戻る感触に自然と笑みが浮かんだ。 これこそが惣流アスカであり、他の誰でもない。アスカはアスカ自身。 はっきりとした勝利の確信とともに目の前の綾波レイを睨みつけた。

「そう?」

レイが微笑みをかえす。 なびいた風が収まると同時に気づいてアスカは驚愕した。恐怖する暇もなかった。 彼女のものではない、外部から浸透した感情が何時の間にかアスカの心の中に居座っている。 レイの言葉の内容、それにレイ自身の希望と悲しみと怒りが身に馴染む。 混乱する人称と視点に思わず酔いそうになりながら 喉元を這いのぼってくる嫌悪感に震えた。 分析し正面から対峙する猶予すらなく心に覆いかぶさってくる。

垣間見たものがレイの非常にプライベートな感情であることにアスカは疑いを持たない。 まかりまちがってもレイについてアスカが想像するようなことではなかったから、 アスカの思い込みのたぐいではないはずだ ── 瞬間的にそういうことだけは良く分かる。 二重にも三重にも腹立たしい。

レイがアスカに叩き突けた内容は大きく二つある。

惣流キョウコが今そこに居たというだけでなく、何をしたかということについて、 レイが語ることをアスカは否定しない。 アスカは自分の母親と結局一言も話をしていないから 母親が居たことに関しては「思い込みかも知れないぞ」 という悪意にあらがうことができない。

自覚するとしないとにかかわらず、この事実は自己完結特有の脆さを生み出す。 それを文字通り抵抗の余地なく突き付けた上で、「アスカが今ここに生きて存在する」 という事実を掲げることはできるとレイは指摘した。

(それが ‥‥?)

真実はともかくとして、 そのギャップを解決する方法は幾つかある。 頭の中ですぐ数えられるだけでもふたっつみっつ。いまさらレイが驚くほどのこともない。

「弐号機は動いてたのよ? あったりまえでしょ?」

誇るように云うと、レイの顔色が変わった。

「声は聞いたの?」
「声? ‥‥ ママの声は、聞いたけど」
「そう。聞こえたの ‥‥」

違和感の正体に気付いた。これは「羨望」だ。

アスカは嘲笑う形に唇を歪めたものの、うまくいかなかった。 レイの心情はあまりに身に覚えがありすぎる。共感して二人の視点が貼り合わさってくる。

アスカが息絶えたはずの時刻と 補完計画最終ステージが始まった時刻の間には数分の間がある。 そのギャップを埋めるいかなる奇跡があったか、 昏睡状態にあったアスカが知るはずがない。 それを疑えと、考えよと攻撃的にレイが迫った ── そこにレイの不思議な羨望があった。

かき回される思考の渦の中でアスカは片目を薄く開ける。 何時の間にか目を瞑っていたらしい。

惣流キョウコの精神は二つに引き裂かれ、片方はほどなくして失われている。 残る欠けた魂は長い年月を経て補われ、弐号機の中で復活した。 失われた部分はアスカを思いやる心だった。だから ‥‥ ふたたび育まれたのもそうだ。 これは論理的に、そうなる。 惣流キョウコがそこに居ただけでなく、アスカの希求する想いに応えたことを「レイが」知った。

アスカの想いはレイの想いであり、レイの想いはアスカの想いだ。 示唆する事実と感情は何よりも確かな存在となって彼女に同化する。 レイ如きに指摘されるのは腹が立つ。ただレイが指摘した内容がレイに 対して刃となって返ることがアスカにとって面白く、 否定してのけるのも興を削ぎそうだ。 自分が No. 1 だった時ならともかく今になってレイが羨むという不可解さが アスカの興味を惹く。そうでなければ誰が耳をかすものか。

アスカは顔を上げた。漂う哀しみとまとわりつく悪意を払いのけつつ、 ようやく彼女は自分の思考の主要な筋を捉えなおした。 第一の適格者(ファーストチルドレン)についてのことは、 耳にしたことをアスカは全て覚えている。 覚えてしまっていること自体が気に入らなかったので普段は忘れたふりをしているが、 綾波レイの出自不明のことも記憶にある。
まったく、高熱でうなされていてもここまで集中力が落ちることは考えられない。

(I need you.)

目の前の相手に初めて感じる感情は心地よかったが、それに浸ると そのまま筒抜けになりそうなのがすこしばかり癪なので 名残り惜しい思いをしながら感情をねじ曲げておく。

「‥‥ で、アスカは何をすればいいの?」
「別に」
「そういうわけにはいかないわ。アスカはレイに借りがある。借りはかえすわよ」

腰に手をあてて憤慨するアスカに、レイはクスと笑った。

「面白い ‥‥」
「何がよ? ── ああ、これ? 気にしないで。 ほんの一般意味論的解決というやつだから」

相手の視点から観察した自分の心情が直接みえて酔うなら名義付けをはっきりさせればいい。 解決法は自明のこと、1 人称、2 人称の代名詞を使わなければ良い。 実際、だいぶ酔いは収まった。

「無駄なのに」

レイがつぶやく。もちろん融合しかけていることに抵抗するほうのことだろうけども。 感情のチャンネルを勝手に伝わってくることが次第に増えている。 もう恐怖というほどのものはないが ‥‥ アスカはわずかに眉を顰めた。 レイがそれをなだめるように答える。シンジの決断で世界は崩れ掛けている。 レイからそう伝え聞いていかにもありそうなことだとアスカは鼻先で嘲う。 「今」を続ける以上の勇気がバカシンジにあるはずがない。

レイはアスカには尋ねようとしなかった。 アスカが怒っていいことかもしれないことだったが自分の行動に照らしてみれば 尋ねるまでもないことも明らかだ。‥‥ 訊かれれば訊かれたで気分を害したかもしれない。 結論は最初から分かり切っていた。


補完世界からアスカが消失するさまをレイは心の中で首を傾げながら見守る。

どちらを選ぶか ── その在りようが変わらないなら、 その選択に意味があるとは思わない。 だから、彼女には尋ねなかった。 そういう意味、なぜ彼女に会いにきたのかレイは自分でも良く分からなかった。 彼女と別れるまえの会話は幾らか有益だったかもしれないが ‥‥

分かりやすい感情を振りまいていた彼女と異なり、 レイには口をつぐんでいたことが一つある。

レイがシンジとの対話にあたって 補完世界の騒がしさから切り離した静謐な環境を用意したのを知れば 彼女は激怒したことだろう。何故かはレイには良く分からないが、 彼女がそういう人物であることは知っている。だから黙っていた。

溢れ返る悪意の中で 自分の思考を辿ることができるのは異常だということを 彼女が認識することはなかった。

無意味なまでに強烈な自負と、あまりにも大きく深い不安が衝突し拮抗する、 そのバランスが弐号機パイロットの精神を形作る。 抗争の余波の敵意が全方位的に侵食し、 周囲に漂う名も知れぬ魂のいくらかを吹き飛ばす。

アスカ本人は気づいていなかった。レイは気にもとめなかった。

アスカほどの自負あってこそアスカの敵意に耐えられる。逆もまたしかり。 それだけの敵意は強大な自負があってはじめて生まれる。 半ば融合のすすんだ補完世界にあっていまだ孤高を守ることができるという現実。 その敵意の圧力に対抗できるほどの精神でなければ近寄ることさえ不可能だ。

良かれ悪しかれ惣流アスカの現状は惣流アスカの全てを反映する。 力と自信の代償としての不安と孤独だ。どちらかだけを選びとることはできない。 現実世界と補完世界は互いに互いの鏡であり、 まもなくレイも戻る現実世界も補完世界とそれほど違うことはない。 惣流アスカが惣流アスカであることを選び続けるとは、 この補完世界での在り方を、 そのディテールに至るまで現実世界に連れ戻すという意味を含んでいた。

「無駄なのに ‥‥」

彼女は下を向いて呟いた。誰に向かってともなく。


次回
二つの世界の間隙にて

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