臓腑をえぐった物語の出来とは別に、不満もまたある。大きく二つ ... 本質的には一つ。
病院モノを含め、人の死に行く様を描いたものは一般に感動的である
── 少なくとも感動を得やすい構造を持つ。
ラストに主人公の片割れたるヒカルの死を持ってきたことで、その安易さに頼るところはなかったか、
という反発が生まれ、鑑賞の余韻に毒を混ぜこむ。
この物語の面白さの大半は誰かが死ぬことによって成ったのではない。
にもかかわらず、中盤に翔を殺し、そして今ラストでヒカルを殺す。
そんなに作り手はこの物語に自信が無かったのか ── という怒りが一つ目。
二点目は物語に手を触れていて感じる作り手の冷たさだ。
ヒカルは自分の生涯に満足して死んだ。
自分の生涯がつばさのためになったことを本人が満足するのはかまわない。
そして、物語の構造上、ヒカルは死ななければならない、
そのことに作り手はいかなる感情も持つ必要はない。
ここまではいい。
だが、ヒカルを殺したことによって必然的に生まれる「ヒカルの死」
の意味が客観的にみて極めて許しがたいものになる ──
一人の人間を成長させるにあたって周囲で複数の人間(とくに子供)が死んでもかまわないという ──
ことをほとんど何の戸惑いもなしに受け入れているということは、驚きである。
「ヒカルのことだけど、私に出来ることはやってみるわ」というオルディナのセリフは、 ヒカルのラストのセリフに流れるコンテクストに対する作り手の反省と罪の意識であると信じる。 と同時に、オルディナがヒカルの生存確率を上げるために何の努力もしなかったという点において、 作り手は有罪であると思う。
ついでに言うと、この不満点が八当たり気味なのは自覚している。念のため。 これくらい先に吐き出しとかんと、あとの感想がマトモにならん。
翌朝は 前日にあったワールドカップ準決勝ドイツvsトルコ戦の翌朝っつうことで 決勝(ドイツvsブラジル)話も出てきたところで いったいいつのなんの話をしてるんだろうというほど感情が遠い。 見事なまでにワールドカップのことが追い出されていた。
ついでに、ためしに一昨日くらいに読んだ本を読み返してみたが、 さっぱりおもしろくない。感情的なものを見事に何も受け付けなくなっていた ...
「つばさちゃんはあたしが絶対守るから」炭鉱内にて。ヒカルからの題目セリフはこれまでと変わらないのに、 つばさの返事は遅いし、頼る色も少ない。つばさの精神のありようが変わったことを示すんだろうが、 ... ん〜、こういうの上手いんだけど、細かいレベルの面倒見すぎで、大きなトコですっぽぬけてんな。
「.... うん」
黒田さんを発見したとき、もちろんオルディナ、DD、それにヒカルの 3 人からすれば 戦闘の邪魔以外のなにものでもないが、戦闘にかかわっている唯一の地球人として、 また、唯一、戦闘にほとんど役に立ってない人物として、つばさは黒田を単なる邪魔物扱いしてはならんだろ ...
「フィギュアになってくれ」
「ぇ、そんなことしたら、ヒカルちゃんが ...」
「... 分かっている。そしてつばさにとっても、非常に危険なことだ。 だが、他に方法は無い。もうやるしかないんだ。つばさ!」
つばさ自身の危険性はヒカル存命であるならつばさは気にしない。 すべてはヒカルの安全性にかかっている。
ヒカルを助けるためにマギュアを叩く、という考え方はかまわない(実際、つばさはこのラインにそって行動した)。 けれど、ここで DD が言うように、 地球の人類を助けるためにヒカルに(つばさにも)犠牲になってくれという考え方は、 子供に対する説得術としては危険だし ... むしろしてはならないことではないか。 おかげで、つばさによるヒカルへの説得も歪む:
「マギュアの卵が、地球に落ちようとしてるの。 それを防ぐために、もう一度だけ、フィギュア 17 になって欲しいの」
地球のためにヒカルに死んでくれと言ってるわけだが、 これが認められるはずがなかろう。自爆テロの勧めと同じ論理である。 DD にせよつばさにせよ、そのことを自覚する必要があると思う。
ついでに絵はバンクばっかで、量産型マギュアのデザインはごきぶりさんだわ、セリフは一昔前の特撮だわ、 炭鉱跡の戦闘のくせに空気は澄んでるわ、 前半の大人達の戦闘に見る点はない。... つーか、見てて腹立ってくるので見る気せん。
また、そういう「どうでもよいこと」をつばさに微塵も認識させなかったことは、 大人というものの最低限度のありかたを示したという意味で敬意に値する、かもしれない。 だがあまりにも、あまりにも、ヘタれすぎる ...
「ヒカルはもう、駄目かもしれない」母船のなかでつばさが目を覚まし、ヒカルは倒れたままだった。ここで DD から連絡が入った時、 つばさの興味はヒカルが大丈夫かどうかの一点にかかっているのであって、 ヒカルが無理をしたとか DD 達がそっちに向かってるとかいうことはどうでもいいことだ。 だから、これをまず最初に言うべきことだろうが、 後回しにしたくなる気分は分かる ── はずなんだが、 DD が人の話聞いてないだけに見えるのはなんでだろう ...
ヒカルの予想をつばさが越えたっつうことで、大きな一幕なんだけど、 ... だーかーらー、そういうのだけで話が作れるだってばさ。無理に殺さんでも。 この直後にお別れセリフがくるもんだから、この一幕が潰されてるじゃないか。
「思ってたよりもちょっと早かったけど、私の命、もうおわりみたい」初めてヒカルから抱きついた。... ここまでひっぱったのか ...
「... え、いやだよ、そんな」
また、つばさからの(なんかちょっと必死な)抱きつき方とちがって、 ヒカルの抱きしめかたはいいな。
「よかったね。萩原君」もしかしなくても、会話らしい会話は初 ... かな。つばさ視点の徹底ぶりが良い味。
「あ、ああ。まあな」
「つばさがうまれるとき、実は、お父さんとお母さん、二つ名前を考えてたんだ。 ひとつはつばさ、... もうひとつ考えていたのが、ヒカルって言うんだ」どういう効果を期待したのかは分からない。 単にいまごろヒカルの名前の由来を(たぶん後づけで)置いてみた、という可能性もゼロではない。
この瞬間に思い浮かんだのは、もちろん 2 話でヒカルが自分に名前を付けるシーンだ:
「そうだ! ヒカルって呼んで」そして、ここからヒカルの行動と感情が怒涛のごとく思い浮かんでくる。 2 話の頃の ── まだつばさとすら知合いの域を出ない、ありとあらゆるものから自由であり、 ありとあらゆるものに果てしない興味を持っていたころのヒカル。
ヒカルの追悼文でも読み上げられている気分になったことは確かである。
こういうありようをヒカル自身が肯定するのはかまわないと上にも書いた。 だけど、同格の ... つまり双子として扱われているかぎりどちらの生がどちらのためにあるというわけではないという意味で ヒカルと同格のつばさを母親と翔の死から引き戻すためだけに ヒカルが自分の命を消費してかまわないという命題を、少なくとも私は私の価値観において否定したい (すまん、えらい面倒な言い回しだが、これ以上修飾語句を減らせない)。
おおざっぱにみて母親の死の重みから逃れるのには それと同等の力が必要だ、ゆえにヒカルがその命をまるまる費すに値する、 ... というのは一見もっともそうだが、 これが成り立つということはつまり、つばさ自身の回復力は皆無だったということで ── つばさが精神的に瀕死の状態にあったとするなら、それはそれで一つの解釈だけども。
これ、けっこ気になってたのだが、 となりにいる(いた)者であって、 それに従属する者(依存する者)であってはいけないのだな ...
「つばさちゃん ...。私、今、とっても幸せ。
あたしが生まれたこと、一緒に暮らしたことが、 つばさちゃんのためになったんだから ...」
「ヒカルちゃん ...」
「つばさちゃん。大好きだよ」