薄井ゆうじの森
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『くじらの降る森』 戻る

あとがき

駅の自動改札機を通り抜けるとき、僕はふと、ある恐怖感に襲われることがある。
 差しこんだ切符が不適格だった場合、左右から巨大な剣山みたいなものが突き出てきて僕を串刺しにしてしまうのだ。理由は、切符の料金が不足していたからである。
 ジュースの販売機も偽造コインを使用できないようにしてあって、変形した百円玉を投入したりすると販売機は爆発し、その近くにいるひとは爆死してしまうようになっている。だからジュースを買うときは、コインが変形していないかどうか、ものすごく注意をする必要がある。


 もちろん、現実にこういうことは、起こらない。起こらないと思う。だが小説という世界では、それがある。ここに書かれた約十五万八千七百字のひとつひとつを、僕は丹念に書き上げた。些細なミスは、許されないと思うから。もしミスがあった場合、僕はどうすればいいのだろうか。簡単である。赤ペンを持って全国の書店をまわり、該当箇所をなおして歩けばいいのだ。深夜にあなたの家を訪れて、こう言えばいい。
「すみません、××頁の七行目を、二文字なおしに来ました」と。
 でもそれは、不可能なことだ。僕はせいぜい、自動改札機を通るとき、ジュースを買うとき、小さなミスを犯さないように、細心の注意をはらいながら生きていこうと思う。そしていつかは、コインを投入したとたんに果てるのだ。このことはストーリーとはまったく別だけれど、この物語は、そういう不安感をベースに書きあげたような気がする。


 これは、僕の二作目の書き下ろし長編になる。前作の『天使猫のいる部屋』を書いているとき、そばに猫がいて、小説ができあがるのを見守っていた。あの物語は、その猫が書いた。
 そしてこの『くじらの降る森』を書いているときは、黒い犬が僕の背後から肩ごしに見ていた。僕はひたすら書きつづけ、疲れはてて仮眠をとる。そして起きたとき、その黒犬がつぎのストーリーを考えておいて、僕に教えてくれた。僕はただ、それを書き写せばよかった。正確に、できるだけ忠実に。そうして、この小説は書きあがった。
 猫や犬が、なんなのかはわからない。僕の小説は、彼らが書いているのである。


 余談だけれど、僕は富士山が見える場所にログハウスを持つことができればいいなと思っている。僕の小説にログハウスが出てくるのは、そういう潜在的な願望のあらわれなのかもしれない。「では、富士山の見える土地を差し上げましょう」というかたがいらっしゃれば、僕はむげに断ったりせずに、気持よく受け取りたいものだと思っている。


 野鳥やその習性に関して、「Naturalist Club」の方々にアドバイスをいただいた。装丁のイラストレーションは、娘の真紀の手による。校了の日は偶然、亡父、薄井勝の命日だった。

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一九九一年十一月十九日 東京江戸川にて   薄井ゆうじ


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