薄井ゆうじの森
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『青の時間』 戻る

あとがき

青く見える物体は、青以外のすべての色を吸収するという。だが青い光線だけは吸収できないために、青を反射させ、透過させ、その物体を青く見せる――。この事実を何かの本で読んだとき僕はとても驚いた。これは青色に限らずほかの色についてもすべて同じで、物体は、その色だけを吸収することができないために青く、あるいは赤く見えるのだという。
 つまり青い海は、青色の光線だけを取りこむことができない――。何か悲しい事実を知らされたような気がして僕は少年の日、その科学雑誌のページを開いたまま、しばし茫然としてしまったことを覚えている。


 二年ほど前に僕は耳を患って、ある特定の周波数帯の音が聞こえなくなってしまった。いまはそれを補聴器で補っているので日常的に支障はないが、聞こえない周波数はどんな補聴器で補っても聞こえない。ぽっかりと穴の開いたように、僕からその音が失われている。
 かつては聞こえていたはずの音たちがどんなふうであったのか、その記憶をいま、ゆっくりと失いつつある。失われていくものの輪郭は、驚くほどくっきりとしている。もしかしたらその聞こえない部分の音こそが、「僕の音」なのではないだろうか。


 この作品は一年前の暮れ、文藝春秋の執筆室で書きはじめた。そしてこの一年間、清里で、軽井沢で、あるいは自宅や図書館で書きつないだ。これを書く作業は僕にとって、まさに旅そのものだった。
 執筆の合間に書きかけの原稿を持って、アメリカ南部の砂漠地帯アリゾナへも行った。荒野に伸びる何時間もつづく直線道路を車で走っていたとき、不意にその失われたはずの音が聞こえたような気がして、僕は持っていた八ミリビデオでその音と映像を収録した。だが帰ってきて再生してみると、たしかに収録したはずのその部分の音と映像はどこにも記録されていなかった。いったいあれは、何だったのだろう。


 書き終えて推敲を重ねていたとき、ベルギー出身の美術家であり演出家でもある、ヤン・ファーブル氏が来日していることを知った。シンクロニシティというか、なんという偶然だろう。
 東京青山で行われた彼の作・演出による『死ぬほど普通の女』を観に行ったが、舞台には割られた千枚以上もの白い皿が敷き詰められ、その上でハイヒールの女優が観客を飲みこむようなパワフルな一人芝居を演じていた。ヤン・ファーブルは、青い時間をテーマに作品をつくりつづけていて、彼のエキサイティングな舞台はブルーの光線にひっそりと包みこまれていた。


 ヤン・ファーブルの曾祖父は、ジャン・アンリ・ファーブル。つまり、『ファーブル昆虫記』で知られる昆虫学者である。
 この小説の内容にも触れることなので多くは説明しないけれど、アンリ・ファーブルが、そしてヤン・ファーブルがモチーフにしている昆虫たちが眠るという青い時間――、それをこの物語の題名にした。青。それをより積極的なものに固定するために、Time Blue を『青の時間』と訳した。


 余談だけれど――といっても「あとがき」自体がすべて余談みたいなものなのだけれど、いま僕は大音量のアシッド・ジャズが流れる真っ青な光線につつまれた店のなかで、この「あとがき」の推敲をしている。店の名は『ブルー』。この小説に似た雰囲気の空間がある、と文藝春秋のOさんに教えていただいた店で、ここは闇のなかに青い照明と音楽だけがある。闇と青い光と大音量のジャズが、なぜこんなにもひとの心にやさしいのか、あらためて不思議に思う。
 こんな店で原稿の推敲をしているのは僕ぐらいなものだと思うけれど、そういえばアメリカでは文字を校正するときに青色の鉛筆を使うという話を聞いた。ブルー・ペンシル。やはり青は、静かでエキサイティングな色なのかもしれない。

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一九九五年十月 東京青山の『BLUE』にて   薄井ゆうじ

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