薄井ゆうじの森
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『雨の扉』 戻る

あとがき

 僕は自慢するわけではないけれど晴れ男で、旅先で雨に降られたことがほとんどない。雨の予報マークがびっしりとならんでいる真ん中へ出掛けていっても僕が行く先々の雲は十戒の海のように割れて青空がのぞき、僕がその地を去るとふたたび土砂降りになる。天才というのは、得てしてそういうものなのかもしれない。


 この夏、フランスのバスク地方に滞在したときもそうだった。列車でスペイン国境付近まで南下したのだが、テレビの天気予報では行く手は雨マークがぎっしりとならんでいるのに僕が着くと晴れ渡っている。「いやあ、この一週間、ついさっきまで土砂降りだったのに」と街のひとたちは不思議がっている。「僕が来たからにはもう大丈夫です」そう言ってその街に十日間ほど滞在した。なんでもバスク地方は雷のたまり場だそうで、ビスケー湾でたっぷりと雨と熱を吸いこんだ空気がピレネー山脈に突き当たり、ものすごい雷と豪雨をもたらすのだそうだ。「ピンポン玉ほどの雹なんて珍しくない」のだそうだ。夏場には夕方になると毎日のように最大級の雷が来るという。なるほど、付近には落雷で黒焦げになった大木がまだ焼けた臭いも生々しく各所に亡霊のように突っ立っている。


 僕はそのときほど自分の晴れ男の才能を恨んだことはない。落雷なんて、子供のころ自宅の窓から一度見ただけなのだ。「見てみたいですねえ」そう言いながら滞在期間中、ずっと快晴の空を見上げていた。ところが明日バスクを発つという前の日、来たのである。最大級の雷が。僕はうれしくなってバルコニーで西の空からやって来る黒雲と、いきなり降り出した大粒の雨を見ていた。「危ないですよ」言われてしかたなく部屋のなかに戻ると、がらがらどっしゃんかりかりぴかどしゃんっ。ものすごい雷が天をひっくり返した。あたりは停電になり、稲妻の光だけがこの世を支配する。ぱちぱちぱち。喜んでいると、完璧な落雷が近所にあって、目の前を飛んでいた部屋のなかの虫が真っ赤に燃えて床に落ちた。あとで見てみると、虫は黒焦げになっていた。僕はその事実を周囲のひとには黙っていた。信じてもらえそうもなかったし、だいいちそういう恐ろしい事実は僕一人だけで噛みしめたかったのだ。


 子供のころ、雨と晴れの境目はどうなっているのだろうかと不思議でならなかった。風と無風の境目もよくわからなかった。夜と昼の境目だって、だいぶ大きくなるまでわからなくて、どんなふうになっているのかとあれこれ考えて頭がこんがらがってしまった覚えがある。夜の扉を開けると朝が来るのだ。そう思っていた。だから同じように、雨の扉を開けさえすれば自在に晴れの世界とのあいだを行き来できる。そういう思考方法が幼児的だとわかるような年齢になってからもなお、僕は雨のなかで扉を探しつづけた。それさえ見つかればすべては解決するのだ。


 この連載は週に十五枚ずつ、その見えないドアを定期的にノックするみたいに書きつづけた。

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一九九六年十月・雨のなかで  薄井ゆうじ

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