サハリン紀行第1部  
 

2003年夏、サハリンへ渡りました。
「近場で、涼しい島」という条件で探して、消去法で残った場所です。それほど積極的な意義はなかったのですが、それなりに面白い話もあります。元は日本だった、とか元はソ連だった、という予備知識はまったく邪魔なだけでした。そこにはもう60年前から作りつづけられたロシアの街があるだけです。先入観を抜きにして見れば、いろんな意味で異文化を感じられます。それではごゆっくりお楽しみください。

*文中のロシア語会話は、白泉社版「ロシア語会話」抜粋、ならびにロシア旅行社「添乗員が作ったロシア語会話集」を見ながらなされたものです。

 
  8月21日(木)稚内へ  
  今日からサハリン旅行なのですが、ひとまず北海道は稚内へ飛ばなければなりません。諸般の事情で飛行機は午後遅いのです。この日の午前中は旅行準備で過ごしました。
かみさんを駅に迎えに行き、昼食のあとタクシーを呼びました。午後1:30、常磐線ー山手線で羽田に向かいます。

モノレールが少し値下げされて、品川経由の京急線とかわらなくなったので浜松町で下車、モノレールに乗り継ぎます。これも諸般の事情で稚内直通ではなくて、旭川行きのJAS便には余裕で間に合いました。
飛行機はかなり空席があり、ゆったりとした飛行です。さしたるハプニングもなく旭川に到着。しかしここでびっくり。旭川空港からJR旭川駅まで行くシャトルバスが満杯なだけでなく、大勢の積み残しをしてしまいました。私たちは真っ先に乗ったので大丈夫だったのですが、乗れなかったら今回の旅行日程の全体がパーになるところでした。

バスは時間ぎりぎりに走ります。旭川市内に入ると混雑も始まり、私は時計をにらみながらハラハラしました。ようやく旭川駅に到着、走って切符を買いに行きます。多少の余裕もあったのでキオスクで夕食の弁当も買いました。旭川ー稚内の自由席特急切符は7560円で、これは予想以上の高値でした。現金がもつのかと心配になります。ぎりぎりの予算で来ている私たちも変な冒険者です。
やがて来た宗谷3号自由席に乗り込み、すぐ弁当を食べました。シャケを中心にした幕の内弁当(570円)です。満腹とはいきませんが、とりあえず落ち着きました。

 旭川駅

かみさんは列車の冷房がきついとぼやきます。周囲には北海道ならではか、短パンにタンクトップで寝ている乗客もいます。名寄でかなりの乗客が下車したので座席を向かい合わせにしました。かみさんはありったけの衣類にくるまって一眠りしますが、やっぱり寒かったそうです。私は足元が冷えて、顔がほてるという自律神経異常を感じた程度でした。
窓の外は真っ暗です。時々人家の光が窓に流れますが、ほんとうにそれは淋しい光でした。地の果てへ来たという感じがしてしまいます。

 眠る相棒

午後10:20、稚内駅に到着し、駅の外を探すと「宗谷パレス」のワゴンがありました。
「蒲原です」と言って乗せてもらい、今夜の宿へ向かいます。稚内駅からは岬をはさんだ反対側です。ぶっとばして10分くらいでホテル宗谷パレスへ着きました。

 宗谷パレス

ホテルは道路一本を隔てて海があり、裏は宗谷半島の丘陵です。和風でこった内装のフロントに入り、チェックインします。部屋は一階の102号室で、狭く感じる6畳和室。テーブルに食事が用意されていました。事前に「夕食には間に合いませんので」と断ったはずなのでびっくりです。
かみさんは私を非難します。しかしホテル側は「夕食なしの素泊まりは受け付けていない」という論理でした。ズワイガニが足を広げている膳を下げさせるのは忍びなかったのですが、かみさんの手前下げざるを得ませんでした。
寝る前に温泉に入ります。ここの風呂は3階にあり、窓からは海が見えます。お湯は薄茶色でかなりトロリとして濃く、効能がありそう。しかし湯は溜めてあるだけで、流れてはいませんでした。ざっと汗を流して体を温め、ロビーでビールの自動販売機を調べます。光が消えているので使えないのかと思ったら、買えました。500ccと350ccの2本を飲んで寝ました。

 
  8月22日(金)サハリンへ  
 

5時前に一度起きてトイレに行き、その後はウツラウツラして6時に起床。交代で温泉に入りました。
7:30に朝食、塩鮭の普通のご飯でした。8:15にチェックアウト、車が戻ってくるまで支配人と話しました。
「30年前に社会党と金丸さんが墓参団を組織してフェリーを出したのが始まりでね、ソ連時代は治安もしっかりしていて、私もサハリンで仕事してましたよ。でも今は治安が悪くてね、この数年でやっと落ち着いたかな。稚内でもロシア人がたくさんやってくるけど、この前もカニをめぐってギャングの殺し合いがあったよ」
そういう話を聞くと少し不安になります。

フェリーの切符

8:35、ホテルのお兄さんの四駆で稚内フェリーポートへ。天気はあいにくの曇り空、時折雨がちらつきます。フェリー「アインス宗谷」の停泊する側に港湾事務所・税関の建物があり、大荷物を持ったロシア人がたくさんたむろしています。それに混じって数人の日本人、という割合です。

港湾事務所
横腹から乗船する

9:00、日本人の職員によるパスポートと乗船券チェックを簡単に済ませ、ボーディングになります。わりあいあっさりしたものです。乗組員に案内されたのはフェリー前方の2等席で、低いしきりで分けられた雑魚寝フロアです。他に客は一人だけだったので、私たちは内側の6畳くらいのスペースを二人で占拠しました。かみさんは毛布を敷いて寝てしまいます。考えてみればゆっくり寝ていけるこういう旅は飛行機のスーパーシートより快適です。

窓の外は荒れ模様で、灰色の空と海が広がっています。窓ガラスは雨粒で曇っています。甲板に上がってもガスで何も見えません。大型フェリーなのに波が高いせいかよく揺れます。私たちは一人3枚必要だと言われている税関の申告書を書きました。

船内を散歩してみると、中程の席には単独のロシア人が多く、椅子席の1等席には家族連れが多かったようです。ビールの自販機に若いロシア人たちが群がっているのを見て、私はその値段にびっくりしました。350ccの札幌黒生が100円です。ロシア人たちの買い占めによって、二つが売り切れになっていました。私は2本買ってかみさんにその話をすると、かみさんはあわてて飛んでいき、5本買い込んできました。国境を渡るフェリーの中は免税なのです。私たちは税抜きビールを堪能しました。

 感動する「100円」の表示
11:45になると弁当が配られました。缶入りお茶つきです。中を見るとキオスク弁当とほとんど同じで、コスト優先の代物だと分かります。ご飯も少し硬く、うまいとは言えませんでした。でも100円ビールのつまみだと思えば不満はありません。


かみさんは酔っぱらってまた寝てしまいました。私は東京から読み続けていた「ホームパーティ」(干刈あがた)を読了しました。「入り江の宴」という奄美大島へ帰る話が印象的でした。

午後3時過ぎ、コルサコフ港が見えてきました。5時間の航海は長いような短いような不思議な時間でした。3:30、着岸するというアナウンスがありました。続いて「ロシア側の船内手続きにしばらくかかる」という説明も。

 コルサコフ
下船が始まったのは3:45で、岸壁に停まっていたバスに乗り込み、500メートルくらい走って税関に来ました。かみさんに若干の書類不備(訂正は許されず、書き直しだと言われた)があったのに、入国審査はすんなりと通りました。手荷物検査もレントゲン透視だけでおしまい、ほとんど問題ありません。しかし私たちの前にいたオジサンは、石ころの詰まった袋を咎められていました。オジサンは「鉱石の見本だ」と言い張っていましたが、ロシアは土・石・植物は輸入禁止なのです。それを伝える通訳は若い女性で、スリムでアジア系の顔立ちなのですが、メイクのせいかまるでビアズリーのキャラクターのようでした。へそにはピアスもしてました。

 ビアズリー女史

外にでると、小柄な金髪女性が「カモハラさんですか?」と聞いてきます。「そうです」と応えると女性は「私はアリオナです、これからホテルへご案内します」と言いました。彼女に従って駐車場のトヨタ・クラウンに乗り込みました。

運転手はロシア人の大男です。アリオナさんはちょっと鼻が丸く、美人というよりは愛くるしい女性です。日本語は小学生レベルなのですが、とりあえず基本的な意志は通じるので文句は言えません。

サハリンの気温は20度C、空気は乾燥していて快適に感じます。車はほこりっぽい道をユジノサハリンスクへ向かいます。コルサコフの街は家も車も土埃に汚れています。道路も一部を除いては荒れていました。大穴がいくつも空いた道を慎重に走り、やっと4車線の立派な通りに出ました。クラウンはそこを時速100キロでぶっとばします。かなり強引な追い越しもするので、後ろに乗っていてハラハラします。1時間足らずでホテルに着きました。

 カウンターのアリオナさん
アリオナさんがチェックイン手続きをします。フロントには太った頑固そうな女性がいて、聞いているとかなり横柄です。ソ連時代の悪弊を引きずっているのかもしれません。受付が終わり、別の女性が鍵を二つ渡します。「部屋が混んでいて、別々の部屋になるそうです」アリオナさんにそう言われ、私たちは「えっ?」と驚きます。3日目のノグリキ(北の町)旅行から戻ってきたら別の部屋とは聞いていましたが、いきなりとは思いませんでした。でも細かいことは言っていられません。

もっと大きな問題は今夜の食事が用意されていないことでした。アリオナさんに確かめてもらっても
「バウチャー(旅程表)にない」の一言でした。私たちは焦りました。
「僕らはドルしか持っていない、これからロシアのレストランに行ってもルーブリがないので食事できない、食料を買おうにもルーブリがなくては買えない、どうしたらいいんですか?」私が言うと、
「どうしてもっと早くルーブリを用意しなかったんですか?」と聞かれてしまいました。
「ロシアはルーブリの国外使用を禁止しているんですよ!」私は叫んでしまいました。「ロシア国外でルーブリを手に入れることはできないんです。もう銀行は閉まっている時間だし、どこか、ドルが使えるレストランを知りませんか?」
アリオナさんはびっくりした様子でした。そして「ないと思います」と言いましたが、こちらが出した市内地図を見ながら2軒の店を示しました。私たちはいったん別々の部屋に入り、それからその1軒へ出かけることにしました。

ユジノサハリンスク地図

中央より上のガガーリン公園向かいにあるのがラーダホテル

部屋は412号と512号で、私は5階、かみさんは4階のちょうど上下でした。ベッド一つの小さい部屋ですが天井が高く、狭苦しい感じはありません。むしろ一人分としては贅沢な空間に感じます。トイレとシャワーをすまし、着替えるとホッとします。この後、時計を2時間進めてサハリン時間にしました。
8時頃ロビーで落ち合ってレストラン探しに出かけます。
地図上で近い店にしたのですが、道が暗く標識もないのでさっぱりわかりません。5、600メートル歩いて大通りへ出たところで、かみさんが疲れて歩けないと言い出しました。「今夜は食事抜きにしよう」というのです。それは困りますが、しかたありません。ホテルに帰って100円ビールの残りと船で買ったウォッカ、その他の残り物で夕食にすることにします。
9時頃612号室に戻り、バスタブにお湯を入れているとかみさんから電話が来ました。
「アリオナさんから連絡があって、別の部屋にしたのは間違いだったからダブルの部屋に移ってくれって」今更そんなことを言われても困ります。風呂の湯をどうしようかと迷っていると、ドアをドンドンと叩かれました。鍵を渡して部屋に案内してくれたオバサンです。彼女は早口でロシア語をまくしたてます。言いたいことはもう分かっています。でも応えようがないので「ダーダー!」と言うしかありません。
とにかくたまりかけた風呂の湯を抜き、荷物をまとめて外に出ます。オバサンが待っていて6階の607号室に案内されました。部屋の形は同じですが、壁紙や家具、ドア、照明器具などが違います。元は同じだったものが、修理するたびに違う物が取り付けられて、結局てんでんばらばらの内装になったのだろうと想像出来ました。すべてが古く、傷んでいます。しかしそれがまたシックにも感じます。

さてこの部屋はダブルではありますが、インフラ(笑)は一緒です。好きなときにシャワーやトイレに入れないのは不便です。さっそくどちらが先に風呂に入るか相談です。とりあえずカラスの行水の私が先に入りました。バスタブは深め、お湯は出ますが蛇口を硬く締めないと水漏れします。トイレの便座はフタを兼ねたプラスチックで、座ると尻が痛いという代物でした。それでも椎名誠さんの「ロシアにおけるニタリノフの便座について」というエッセイに乗っているような、便座そのものがない、ということはありませんでした。
かみさんが出てくるのを待って350ccの黒生一本、ウォッカのお湯割り、家から持ってきた梅干しなどで夕食もどきを済ませました。
空腹ではありますが、疲れもあるので眠れるかと思いベッドにつきます。華奢な細いベッドで、私でも小さく感じます。大男のロシア人では足が出てしまうでしょう。こんなベッドばかりなのが不思議です。外は嵐になったようで、ざわめきを感じる眠れない夜でした。

 
  8月23日(土)ユジノサハリンスク観光  
 

午前2:305:30の2回、目が覚めました。そのつど枕元のデジタル時計のバックライトを点けて確かめます。毛布をかぶっていると暑いのですが、夜中に時々寒く感じることがありました。
6:45にもそもそ起き出しました。カーテンを開けると二重になった窓ガラスの外側は雨に濡れています。時折、バラバラッと雨粒がガラスを叩きます。窓を少し開けると凍るような冷たい風が吹き込んだのであわてて閉めました。
 窓の眺め
7:30にかみさんを起こし、8:15に朝食に降りました。1階のレストランかと思ったら、2階で呼び止められました。階段の側の狭い部屋がダイニングになっているのです。あとで聞くとレストランは工事中だということでした。9:00待ち合わせなので早く降りてきたのがよかったのか、このときはゆっくり食べられました。内容はパン2種・チーズとバターのスライス・マッシュポテト・ハム、それに小さなリンゴ4分の1でした。


急いで歯を磨いて身支度し、9:00にロビーに降りたのですが、アリオナさんは5分遅れました。「すみません、道が混んでいました」と謝ります。そして夕べの騒ぎのことを改めて詫びます。カタコトでくどくどと謝られると「もういい、もういい」と言いたくなります。
この日は市内観光とトナイチャ湖遊覧ということになっています。でも、空は荒れ模様で風は冷たく、時折雨がぱらつき、とても観光気分ではありません。それでも予定は変えないようです。昨日と同じ運転手で、昨日と同じスモークシールドのクラウンです。この車は日差しの強い日には重宝ですが、今日のような暗い日には観光には向いていません。それでも風の中のユジノサハリンスク巡回へ出かけます。

その内容は写真の通りです。中心街のレーニン通りにはインターネットカフェもありました。一つ驚いたのは映画館でアリオナさんが館員の太った初老の女性に「おまえの来る所じゃない!(たぶんこんな事を言っていたと思う)」と言われて追い出されたことです。館員は私たちには「あんたたちはいいんだ」と言いつつ引き留めようとしました。でも私たちも急いで出るしかありませんでした。突然の出来事でびっくりしました。考えてみるとアリオナさんは黒い生地にメタル飾りのついたミニのワンピースという姿で、すごく派手でオシャレではあるものの、ある種の職業に間違われたのかもしれません。

日露戦争の終戦記念碑
勝利記念公園のT-34
西の丘から市内を眺める
駅前のレーニン像
図書館前にいた猫
呼んだら来た このあと私の方に来た

 


周回の終わりにたくさんの人でにぎわっているドムトルゴーウリ百貨店に入りました。ここには土産物屋もあり、両替の出来る銀行窓口もあるのです。土産物を買うにもルーブリがいるので、まずドルをルーブリに替えることにします。小さな窓口に行くとこれまた太ったオバサンが一人で座っています。私が二人の手持ちのドルの総額を伝えて計算してもらったのに、かみさんは半分以上をホテルに置いてきていることが分かり、混乱しました。最後にはオバサンが仕切の後ろから出てきて計算してくれました。

待望のルーブリが入り、かみさんは何か買い物をしようと言います。私は「土産物は最後でいい、今日の昼食を適当にここで買って、ホテルで食べよう」と提案します。かみさんもそれはいい考えだ、と言うので総菜売場に行き、アリオナさんに通訳してもらってピラフ類とサラダ、ビールを2本買いました。それぞれが20ルーブリから40ルーブリ(80円〜160円)で、安さにびっくりします。しかも消費税などの余計な計算がいらず、スッキリしています。ビールは驚くほどの種類があり、どれを選ぶか迷います。ロシアには日本のようなややこしい酒税法がないので、各地に地ビールがあるそうです。アリオナさんは自分の分としてチョコレートを買いました。

 ドムトリゴーウリ百貨店内のお惣菜店
 この左側に酒屋がある

 

もう11:30だったのでホテルに帰るのかな、と思っていると、アリオナさんは「これからトナイチャ湖に向かいます」と言います。お昼までに帰ってこれるのか心配になりますが、仕方がありません。車はユジノサハリンスク中心部を出て、コルサコフ方面へ向かいます。途中で左に折れ、田舎道に入ると突然乳牛の群が横切りました。野良牛ではないのでしょうが人間の姿はありませんでした。

フロントを横切るのが撮れなかったので後方
5〜6頭で林に消えた

 

やがて太平洋側の海岸へ出ました。「オホーツク海だ、オホーツク海だ」とかみさんは喜びます。荒れ気味の天気に海も白波を上げて荒れています。そこからすぐのトナイチャ湖はなんの観光施設もない、ただの気水湖でした。森や海岸もなく、茂みの続く単調かつ居心地の悪い水辺です。

 トナイチャ湖
すでに12時を大きくまわっていたので、私たちはここで昼食にすることにしました。思いつきながら昼食を買っていてよかったと思いました。運転手は「まだ空腹ではない」と言い、アリオナさんはチョコレートを食べました。ビール瓶のフタをあけたくて運転手に尋ねると、彼は車のシートベルトの金具を器用に使ってフタを開けました。「ハラショー」と言って手を叩きますと、彼はひたすら照れていました。
私たちは狭い砂浜に降り、岸の草を踏みつけて食卓にしました。箸がなかったので芦の茎を折って作りました。あまり期待していなかったのに、ピラフ2種類は絶妙な味付けで美味でした。コロッケ風のオカズもサラダもそれぞれおいしく、ビールは生っぽくいけました。結果としていいハイキングというところです。

葦の茎の箸
オホーツク海

帰り道にオホーツクの見える砂浜に降りて記念撮影しました。海が好きだと言っていたアリオナさんは寒いので車の中にいました。
彼女は猫が好きで、私たちが三匹飼っているというと「どんな猫ですか?雄ですか雌ですか?」と興味津々でした。彼女自身はペルシャのような毛のふかふかした猫が好きだそうです。そして自分で自分を「ロマンチストだから海が好き」なのだと言いました。日本語はサハリン大学日本語学科で習い、税関にいた女性は友達だそうでした。

ホテルに戻ったのは2時過ぎだったと思います。例によって運転手は過激な走りをします。車から降りてホッとしました。部屋に帰り、なんだか疲れたので昼寝します。天気は回復してきて、窓から強烈な日差しがさしてきました。少しウトウトしたくらいですぐ目が覚めてしまいました。時計は5時近くを指していますが真昼のような太陽です。それもそのはず、日本時間ではまだ3時前なのです。散歩や買い物など思いもよりません。

 ロシアン・ルーブリ

6:10、少し日が陰ったので夕食をとりに出ることにしました。アリオナさんに聞いた日本食レストランで、その名も「日本みたい」というのです。アリオナさんは「大きな看板があるのですぐわかります」と言うのですが、この国の店舗の看板はおおむね小さく、住宅併用のビルの中にある場合など、B3くらいのプレートが壁にあるだけで、中に入らないと何の店だかさっぱりわかりません。用心して出かけます。
ラーダホテルの前を通るコムソモールスカヤ通りを南へ向かい、テレビ塔が見える角まで来てパヴェチ(勝利)大通りを西へ曲がります。そうして20分ほど歩くと「日本みたい」に着きました。ここは山荘のような木造二階建てで、一階は食品店になっていて和食も売っています。二階に上ると若い女性店員たちが「コンニチワ」と日本語で挨拶します。

窓際の席に座ってメニューを見ますが、目玉が飛び出す値段です。200ルーブリから500ルーブリの料理が並んでいます。それも寿司の2カンだったりします。日本だったら珍しくない値段ですが、もはやロシア的な金銭感覚になっている私は納得出来ません。しかしかみさんは平気なようです。ビールと寿司3皿とビビンバ(日本料理じゃないぞ?)を注文しました。寿司はまあまあの味でしたが、値段には納得できません。
石焼きビビンバは私は作り方を知らず、軽くかき混ぜただけで食べようとすると、若い男性店員がやってきて手本を見せてくれました。まだ生の肉を熱い石の器に押しつけて焼くのです。全部の肉の色が変わったところで食べるのでした。キムチのうまみが出てうまかったです。ご飯にキムチ・豚肉・卵・コチジャンを入れ、焼くだけですから原理は簡単です。うちに帰ってぜひ作ってみようと思いました。
ビビンバをかき混ぜる

食事を終えてレジに行き、勘定書を見ます。頭の中の計算は1000ルーブリくらいでしたが、値引きが20%くらいあって830ルーブリでした。日本円でなら3000円台は二人の食事代としてたいしたことありませんが、これって一般のロシア人にはきっとチョー高嶺の花でしょう。この後、一階の食品店で明日の朝食(電車の中で食べる)を仕入れました。パンと揚げ物・ピラフそれに缶ビールです。

かみさんのペースでのんびりしてしまいましたが、今夜は8:50の電車で北部ノグリキへ出発することになっています。7時になっていたのでかみさんを急がせます。15分でホテルに戻り、急いでチェックアウトしました。今日歩いた距離感覚でいくと駅まではずいぶん遠そうです。重いリュックを抱えて歩くのも大変なので、タクシーを呼んでもらうことにしました。しかしフロントのオバサンは「ステーションまで行くのだ」と言っても分かりません。地図を示し、「ヴァグザール!」と怒鳴ってやっと分かりました。ホテルですらこの調子です。

タクシーは5分たっても10分たってもやってこず、かみさんがもう一度フロントに言いに行ったところでやっと到着しました。フロアシフトの普通の乗用車です。運転手は荒れた道をガンガンふっとばし、それでも10分ぐらいかかって駅に着きました。歩けばきっと30分はかかったでしょう。乗車賃は60ルーブリです。
一度駅の構内には案内されていたので、ホームはわかります。上下兼用で1本しかありません。改札口もなく、乗車券のチェックはそれぞれの乗車口で行います。ホームに5〜6人の改札係が立っています。みんな女性で、制服らしいものを着ているのは二人だけです。エプロンをした普通のオバサンが改札しています。

 駅のホーム
私たちの車両番号は2号だったので、端の方だろうと最初は右手の先頭へ向かいました。しかしそこには小さな番号札があって、12と書いてありました。仕方なく反対側に歩きます。左手の端に来たところで改札係にチケットを見せますと、「ここは8号車だ、もっと後ろに行け」というようなことを言われました。変な車両編成です。8〜1と並んで、9〜12に繋がっているのです。なんだか馬鹿にされたような気がしました。番号札も小さな窓に葉書くらいの札が一つかかっているだけです。

2号車の改札係はまだ若い女性で、でも顔も体型もフルシチョフに似ています。チケットとパスポートを見せて車両に乗り込みます。1室上下段4人の寝台です。ここにも番号などはなく、どのコンパートメントに入ればいいのかわかりません。チケットには小さな数字が並んでいるだけです。どれが何を記しているのかさっぱりです。しかたなく、後方の廊下に立っていた若い髭の青年にチケットを見せて「グゼー・エータ?(これはどこ?)」と訊ねました。彼は親切にも車両を横断して2番目のコンパートメントまで来て、「ここだ」とジェスチャーで示しました。部屋を覗き込むと、二人の中年に近い女性がいました。彼女たちは下の座席のテーブルに向かい合っていて、私たちの席は上だと言います。二人連れの席が上の二つというのは不自然ですが、そう言われれば従うしかありません。違っているなら車掌がそう言うだろう、と思って梯子を引き出し、二人とも上の寝台に上がりました。とりあえず旅の寝床は確保したわけです。

 寝台の上段から廊下側を見る

列車はほぼ定刻の8:50に出発しました。この寝台はカーテンもなく、最低限のプライバシーもありません。見られても仕方ない、と居直ってジャージに着替えます。下の女性たちはしきりにおしゃべりを続けています。年かさの方が低音でドスが効いており、若い方が綺麗なソプラノで、二人のロシア語の会話は音楽のように聞こえます。きっと会話の中身は嫁がどうした姑がどうしたという、世間にざらにあるものなんだろうという想像はつきますが、やっぱりほとんど分かりません。
フルシチョフ車掌は2度来ましたが何も言いません。ちょっとガッカリです。10時になると消灯になり、上から女性たちの布団や毛布を下ろし、「スパシーボ」と言われます。電気を消すともうあとは寝るだけです。しかし寝床は狭く、壁側に傾いていて寝苦しいのです。特に左を下にすると心臓が圧迫されて息苦しさを感じます。何度も寝返りを打ちました。それでもいつの間にか眠っていたようです。

 

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