アンチTOYOTA、その理由

まず最初に断っておくが、私はかなりのアンチTOYOTAであった。これは、私の「保守本流」「長いものに巻かれろ主義」嫌いや、「食わず嫌い」に起因するものだけではない。トヨタ嫌いの理由は、その「80点主義」と言われる考え方だ。

一般にトヨタ車は、非常にバランスがよく、行き届いた気配りがなされていて、落第点を取るようなクルマはない。「かゆいところに手が届く」と言うやつだ。その一方で、どこかずば抜けて良いところがあるとか、クルマそのものが何らかの理念を主張するような強烈な個性を持つことが少ない。

この意味でトヨタ車は、実に日本的なクルマだ。周りと寸分違わずはみ出ないように、学習指導要綱に従って規格化されて育てられてきた、我々日本人そのものの反映であると言っても良い。そのようなクルマは、私のような「はぐれ者」には馴染まない。せいぜい、年をとって角が取れてきたら乗れかな、と言うところだった。

世の中完璧な製品などと言うものはない。どこか、欠けているものだ。問題はその欠け方なのだ。私にとっては製品の完成度より、その製品がどれだけ先鋭的な輝きを持っているかの方が重要だ。そういう先鋭的なものを全部鉋にかけて真っ平らにしてしまうような、平均的日本人像のようなクルマには、大枚の金をはたいて買う気にはなれない。

かといって、個性はあっても、原価に対して様々なマージンが乗っているような、コストパフォーマンスの悪い稀少外車を買う金もなかった。いざ買おうと思ってみても、どう見ても割高だ。しかも海外に行ってみると、日本車がいかに海外でステータスが高いかがわかるので、外車を崇拝する気になれない。

そんなこんなで、これまで日産とスバルのクルマを乗り継いできた。このいずれの会社(今や同系列)も、とりあえず技術力には定評があった。日産が「技術の日産」を標榜しなくなってから久しいが、とにかくこれらの会社の作る車は、「芯」があった。特に日産車は、ある程度の完成度は高いが、どこかすばらしく良くできているところと、ここだけは何とかしてくれと言う不満な点がない交ぜになっていて、飽きが来なかった。いわゆる、「美人はすぐ飽きが来る」の逆だ。

ホンダの車も革新的なことをやってきた。ただし、クルマ作りの詰めは最近まで甘かった。

こういう考えのもと、何はともあれ、トヨタの車にはあまり関心がわいてこなかったのだ。しかし、このような考えはプリウスの登場で、180度変わってしまった。

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