〔 ダブルバランス 〕
「お待たせしました。珊瑚礁ブレンドです。」
瑛が珈琲を二つ、テーブルに運んできた。
前と変わらぬ様子でそれをテーブルに置くと、瑛もの向かいの席に腰をおろした。
瑛がに目で飲むように合図してきたので、はそれを手に取って一口くちに運んだ。
「・・・・おいしい。」
そうつぶやいたを、瑛が満足そうに見ていた。
「どうして・・・・。」
カップを置いて、はそれだけを言うのが精一杯だった。
どうして。
どうして。
どうして。
いなくなってしまったの?
ここにいるの?
「そうだよな。言いたいこと、いっぱいあるんだろ?
勝手なことばっかり、俺・・・。
ごめん。でも、俺も今日、どうしてもに伝えたいことがあるんだ。
どうしても伝えたくて、会いに来た。
・・・・会えてよかった。
聞いてほしいことがあるんだ。
俺、に。」
の目をまっすぐに見つめて瑛が言った。
だからも、瑛の目を見てうなずいた。
「マフィン。すごくうまかった。」
言われたことが最初すぐにはわからなくて、はただ、ぽかんと瑛を見ていた。
そんなに少しの笑みを見せながら、瑛が言った。
「じーちゃんから、受け取った。バレンタインの。」
「食べて・・・くれた、の?」
聞き返すに、瑛が笑う。
「忘れられない味だった。やっぱり。の味だ。」
が涙を流していないことにほっとしながら、瑛はゆっくり一言ずつ、言葉を選びながら話し出した。
「昔、俺は羽ヶ崎の灯台で俺の人魚に会った。すごく印象的な出会いだったから、ずっと忘れずに覚えていたんだ。
高校に入って、その人魚と再会した。けど、人魚との運命は、再会するまでだったんだ。そこから恋にはならなかった。
そして俺は、雨の中、同じ雨宿りをした人間の女の子に、恋をしたんだ。
最初から、俺の秘密を知ってて、素の俺しか知らない女の子。
俺の大切な場所を、同じように大切に思ってくれていた女の子。
でも、俺はその大切な場所、珊瑚礁を失って、俺自身にぽっかり穴があいて、なにもかもに自信がなくなった。
俺にとって、珊瑚礁はすべてだったから。
珊瑚礁を失った俺なんて、俺じゃない。目標も、希望もなくなった俺を、誰が好きになってくれるんだって。
怖かったんだ。否定されるのが。
だって、はずっと、俺じゃない男を好きだったから。は、ずっと一途に、そいつを好きだって言い続けていたから。
こんな俺なんかじゃ、絶対にダメだって思った。だから、俺は逃げ出したんだ。に何も言わず。何も聞かずに。
離れて、忘れようと思った。珊瑚礁も、お前も。
俺がほしいものは、もう、何も手に入らないと思ったから。
でも、ダメだった。
離れても、なくなっても、俺の中に珊瑚礁があって。
気がついたら、思い浮かべてるんだ。
が作るマフィンに、俺が淹れる珈琲。二人でメニューを決めるあの時間と、流れる空気。
思い出したら、たまらなくなった。
俺、ずっと無理なんてしてなかった。
楽しかった。
辛かったことも、苦しかったことも。
学校と珊瑚礁、両立してこれたのは、あの時間と空気があったからだった。
だから、俺、決めた。
何年たっても、どれだけ大変でも、俺はもう、絶対珊瑚礁をやっていくって、決めた。
やっぱり珊瑚礁が、俺の唯一絶対の自信だから。
でも、そこにはがいないとダメなんだ。
がいない珊瑚礁は、もう俺の珊瑚礁じゃないんだ。
だから、傍にいてほしい。
こんなに弱い俺だけど、ずっと、支えてほしい。
俺も、珊瑚礁も、なしじゃ、考えられないから。
おとぎ話のようでもない。
小さいころからを知ってる男でもない。
それでも俺は、俺の日常の中で出会ったに、ずっと恋をしていたんだ。
好きだ。
。」
「・・・・私も、瑛くんが好きです。」
がそう言うと、瑛は一瞬驚いた顔で目をぱちぱちさせた。
そのの答えは想像していなかったらしい。
「え・・・ホント・・に?」
はうなずく。
それでも瑛はまだ信じられないという顔でを見ている。
「だって、・・え、いつから?」
「きっと気持ちは、ずっと前から。でも、気づいたのは瑛くんがいなくなってから。
私もね、運命だと思ってたの。幼なじみってことを。
でも、運命なんてなかった。
思ったように進まなくて、何回くじけたかわからない。
そんな私の前に、くじけないまっすぐな人がいた。
ただ自分の夢のために、何もかも犠牲にできる、くじけない人がいたの。
瑛くんは、その夢の場所、珊瑚礁を守っていこうと必死だった。
私も、その夢の場所、珊瑚礁がとても大切になってた。
思い知らされたんだ、私。離れてから初めて。珊瑚礁と瑛くんが、どれだけ大切か。
だから、瑛くんがいなくなったこと、悪く思ってないよ。離れてみて、気づいた気持ちがあったから。
珊瑚礁で、瑛くんがいて、一緒に働けたことがどれだけ大切な時間だったか。
それが、私の高校生活に、どれだけ溶けこんでいた時間だったか。
そのときの時間を忘れてしまう前に、知ることができた。
けど、ずっと後悔もしてた。
私、一番大切なことが言えないままだった。
ずっとずっと、瑛くんは私に伝えてくれていたのに、その優しさに逃げて私は・・・。
後悔してた。
瑛くんに、好きって言えなかったことを。
会えたら、絶対に言うって決めてたの。
何年たっても、絶対に言うんだって。
瑛くん。
私、瑛くんのことが好き。」
「、覚えてるか?修学旅行で俺が言ったこと。珊瑚礁をどうしていきたいか、見えてきたって言ったこと。」
「うん。覚えてる。・・・・教えてくれなかったけど。」
前と変わりなくが拗ねた口調でそう付け加えると、瑛も前と変わりなく笑った。
「言いたかったけど、言えなかったんだよ。だって、そのビジョンにはもいたから。」
「私?」
「そう。珊瑚礁があって、俺がそこにいて、もいるんだ。
俺が珈琲を淹れて、がつくったデザートがあって、それが当たり前の姿の珊瑚礁にしたいんだ。
高校生のときみたく、二人でメニュー決めて、話し合って。そうやって作っていきたいんだ、珊瑚礁を。」
「それじゃ・・・。」
「珊瑚礁は俺の夢だから、絶対にまた、ここを開ける。俺が開ける。
親にもちゃんと向き合って話してきたんだ。俺は将来、珊瑚礁をやりたいって。そのために経営も学ぶし、経済も学ぶ。
それから、バリスタの修行もするって。半端な覚悟じゃないんだってこと、真剣に話したよ。
まだ完全に納得してくれたわけじゃないけど、やれるところまでやってみろって言ってくれたんだ。
だから、俺はここで、ここから、また始めてみたいんだ。珊瑚礁はまだ閉まったままでも、いつか開ける日のために。」
「じゃあ、私また珊瑚礁でお菓子作れるんだ?!」
が目を輝かせた。
「瑛くんの珊瑚礁の夢の中に、私の場所もあるんだね。私、またここでお菓子が作れるんだ!」
「いや、そういうこと・・では、あるんだけどさ・・・・。今はそこじゃないだろ。」
あまりのの喜びように押され気味になって瑛が言った。
最後のつぶやきはに伝わっていなかったけれど。
瑛にとったら、もっと先の未来を約束したつもりだった。
瑛の人生の中に、もう以上に同じ未来を目指していける人なんて現れないと思っているから。
でも、「まぁ、いいか。」と瑛はの笑顔を見ながら思った。
こんなに珊瑚礁再開を一緒に望んでくれているのだから。
まだ先は長いけれど、ゆっくり二人で歩いていければいい。
二人の想いは、今日やっとつながったばかりだから。
「。これ。」
瑛が銀色の鍵をユナに差し出した。
「これ?これって珊瑚礁の・・・?」
のてのひらにその鍵が渡される。
はその鍵をまじまじと見て、顔をあげた。
瑛がに差し出したのは、珊瑚礁を開けるための鍵だった。
「に持っていてほしいんだ。それで、いつか俺が珊瑚礁を開ける日がきたら、その鍵で一緒に開けてほしい。
・・・鍵を閉めたのも二人で閉めたから、開けるときも一緒に開けたいんだ。」
「瑛くん・・・・。」
はてのひらの鍵をきゅっと握りしめた。
クリスマスの日、二人でここの鍵を閉めたことを覚えている。
なかなか鍵を閉めることができなかった瑛の、辛そうな背中を覚えている。
「また、開けられる日がくるよ。」
これで終わりじゃないと、言ったのはで、あれで終わりにしなかったのは瑛。
二人は、そうして同じように珊瑚礁を想っている。
「約束する。珊瑚礁を開く日まで、この鍵は大切に持ってる。」
が瑛を見て言った。
「またいつか、一緒に鍵を開けようね。」
***
(以下、はばたきウォッチャー12月号より抜粋)
【喫茶・珊瑚礁】
長い休業期間を経て、三年前に再オープン。
再オープンにあたり、人気バンドのReD:Cro'zから祝花が贈られたことは伝説になっている。
定評のある厳選された珈琲豆を使った珊瑚礁ブレンドは、マスターの淹れ方なしには生まれない味。
店で提供されるチョコチップマフィンは、同誌の「はばたき市のOLが選ぶお菓子」bPに選ばれた。
クリスマス限定のデザートプレートは今年も売れ切れ必至なので、必ず予約を。
店の雰囲気もさることながら、一番の癒しはマスター夫妻のきどらない暖かさ。
まるで「ただいま」と言いたくなる優しい空気で包まれた店には、何度だって足を運びたくなる。
(マスターの佐伯瑛さんからのメッセージ)
「三年前、ようやく鍵を開くことができました。
この当たり前に流れる時間を、当たり前のように思わずに、これからも珊瑚礁で過ごす時間を大切にしていきます。
もちろん、訪れていただけるお客様にも、そんな特別な時間を提供できたら、それが幸せです。
ぜひ、クリスマスの特別な珊瑚礁を見に来てください。」
***
「鍵は、きっとまた開くよ。だから・・・。」
「またいつか、一緒に鍵を開けようね。」
END →あとがき