〔 ダブルバランス 〕










ある日の金曜日。
瑛が学校から帰宅すると、狙ったように土砂降りの雨が振ってきた。
天気予報でも予想できなかったほどの、集中豪雨。
瑛は恨めしそうに窓の外を見ながら、ケータイを切った。

「だめだ、アイツ電話でない。」
「家には電話してみたのかい?」
「うん。でも家出たって。こんな嵐の中来るつもりかよ。」
瑛は恨めしそうに店の外を見た。



季節はずれの台風のような嵐。
風の向きは四方八方に吹き荒れていて、窓ガラスにも雨が叩きつけられている。
その窓の向こうで、白い色が揺れた。
「あのバカ!」
瑛はそう暴言を残して、店から家に続く廊下へ飛び出した。




「おはようございまーす!」
案の定、傘なんてさしていた意味がまるでない姿のが現れる。
身体中から雫をポタポタたらしながら、どこか楽しげにがあいさつをした。
「どこまでのん気なんだお前は!」
大きなバスタオルでの顔ごと包み入れて、瑛ががさがさと乱暴にの髪を拭いた。

「わぁ、洋服が絞れる。」
瑛の言うことも聞いていないで、が楽しそうに言った。
総一郎は楽しげに二人の様子を見ていた。

がしがし拭いて瑛がバスタオルをどけてやると、どこかすっきりしたようなの笑顔があった。
「寒かったー。珊瑚礁はあったかい。珈琲もいい匂い。」
すうっと香りを胸いっぱいに吸いこんで、が言った。
そして瑛を見て首をかしげる。


「あれ?佐伯くん、髪セットしないの?」
今日の瑛は、格好はバリスタの姿をしているのに、髪は下ろしたままだった。
「こんな嵐に客なんて来ないよ。も少しは考えろ。」
「んー、でもこんな経験なかなかできないし。楽しくって笑っちゃった。」
びしょびしょの服のままで、が笑う。

「子供かよ。はァー、俺、髪セットする前でよかった。」
「バリバリに固めるから痛むでしょ?」
「ただでさえ弱いんだ、俺の髪。」
「将来ハゲちゃうかもよ・・・?」
「あーっ!!お前今すんごいヤバいこと言ったろ?!」
「言ってない言ってない。」

瑛がまたバスタオルをにかぶせて、嫌がらせのようにぐしゃぐしゃとかき回した。
そんな調子でいつまでもやまない会話を続ける二人。

「瑛。早くさんをお風呂に案内しなさい。シャワーを浴びてもらわないと、風邪をひかせてしまう。」
総一郎がそう言ってとめなければ、おそらくずっと言い合っていただろう。
総一郎にしてみても、そんな様子の瑛が見られることは幸せ以外の何者でもなかったけれど。
大切な珊瑚礁の一員であるに、風邪をひかせるわけにもいかなかった。








「佐伯くんの服を借りたはいいけど、おっきーい。」
家側から店側へ、廊下を歩きながらはつぶやいた。
「結局迷惑かけちゃったなぁ。あはは、ぶかぶか。」
シャワーを浴びたは、ほかほかに温まった身体に瑛のジャージを借りて着ていた。
どこまでめくりあげれば着られるんだろうというくらい、ジャージの袖も裾も折り曲げられている。


この集中豪雨で一部の道路が封鎖されたという。
さすがに今日は店じまいです、と総一郎が言っていた。

「せめてお店掃除だけはして帰ろ。」
そう言いながら珊瑚礁への扉を開けると、話し声が聞こえた。
「お客さまかな?」
さすがにジャージ姿のスタッフはまずいだろうと、気づかれないようにそっと顔だけのぞかせた。



「塾、サボってきたのに散々だったな。」

聞こえてきた声と、ちらりと見えた客の姿。
声を漏らしたわけではないのに、思わずは自分の口を塞いでしまう。
はとっさに扉を半分閉めて、そこへしゃがみこんだ。

なんでここに、ユキが?!

は自分の口に手を当てて、ぎゅっと押さえつけた。
そうしていないと、声が漏れてしまいそうだった。

突然のことに、頭が軽いパニックを起こしていた。
珊瑚礁のことは、ユキに話していない。
なんて話を始めていいのかもわからない。


そこへ、が半開きにした扉に目ざとく気がついた瑛が、顔をのぞかせた。
しゃがみこんでいるを見つけて、一瞬驚く。
「なにしてるんだ?こんなところで。」
は声を出さないであいまいに笑った。

「?・・あ、と同じ濡れネズミが来てるぞ。はば学の制服着てるから、知ってるんじゃないか?」
瑛の言葉に、は思いっきり手をバッテンにして、首をぶんぶん振った。
瑛を見あげているの目が、何かを懇願している。
ぎゅ、と口を結んでいるの姿に、何もわからない瑛ではなかった。

「ここにお前はいない、と。」
独り言のようにつぶやいて、瑛は店に戻って行った。




さすがにと鉢合わせさせるわけにいかないので、バスタオルだけをユキに渡した瑛。
ユキは「ありがとうございます」とそれを受け取った。
ユキには気づかれないように、の存在を総一郎に口止めする。
幸いユキはものめずらしそうに珊瑚礁の店内を見回しているから、気がつかなかったようだ。

「学校の帰りですか?」
総一郎が珈琲を淹れながらユキに話しかける。
「いえ。家の方向は逆です。」
「では、どうしてこんな日に?」
「今日は塾だったんですけど、前からこの辺の海がきれいだなって思っていて。散歩したいなって、突然思っちゃったんです。」
「そしたらこの大雨ですか。ついてないですね。」
「えぇ、まったく。」

カウンターに座ったユキに、総一郎の淹れた珊瑚礁ブレンドを差し出す瑛。
「お待たせしました。珊瑚礁ブレンドです。」
出された珈琲を一口飲んで、ユキは「おいしい」と思わずつぶやいていた。
「それはよかった。」
総一郎がカウンターの中からにっこりほほ笑んだ。


瑛が意図的に扉を少し開けていてくれたので、にもユキの会話が聞こえてきた。
バイトをしていることは言ってあるけれど、珊瑚礁だとは言ってない。
悪いことをしているわけではないけれど、こんな突然来られてもどうしていいかわからない。
知り合いの人のところで頼まれて働いていると言ってある手前、そこをつっこまれたら瑛の秘密も危うくなる。
なにせユキは生徒会執行部として、はね学生徒会とも交流があるのだ。

しかもは今、シャワーあがりの瑛の服だ。
あらぬ誤解をされたくない。
は座りこんだままで、息を潜めていた。


「鞄もびっしょりだ。」
ユキは自分のタオルハンカチを取り出して、鞄の中を拭く。
ユキの鞄から出てきた書類に目を落とした瑛は、思わずそれを口に出して読んでしまった。

「はば学はね学合同、あいさつ運動?」
瑛の脳裏に、今日の朝の出来事が浮かんだ。
同級生の生徒会の氷上が、声を枯らすほどに大きな声で校門であいさつをしていた。


瑛の声を拾ったユキが、プリントを持ちあげる。
「あぁ、これですか?これがどうかしました?」
「いえ、あいさつ運動って、はば学のイメージと違うなぁ、と思いまして。」
「うん。きっと僕たちの学校ではやらないと思います。」
「なんで?合同って書いてあるのに?」
きっぱり言い切ったユキに、不快感をあらわにして瑛が言う。
瑛の中に、氷上は真剣にやっていた、という記憶があるからだ。

素の自分をさらけ出すほどには、瑛は氷上に心を許してはいない。
けれど、それほど自分を作りあげることなく会話できる一人ではあった。
氷上は瑛を探ろうともしないし、会話するのに構えてもいない。
たとえば素のままで瑛が会話しても、さらっと流してくれるであろうと期待が持てる人物ではあった。
その氷上の行動を、無下にされた気分だった。


「乗り気じゃないんですよね、僕も含めて。」
「へー。」
「あいさつすることで、なにが変わるんだろうって、それもわからないし。やる意味が見出せない。」
カウンターの椅子を引いて腰掛けながら、瑛が気のない返事を返した。
普段の仕事中なら、絶対に見せない姿だ。


ユキはそんな瑛をじっと見た。
「ナンデスカ?」
ユキの態度に、緊張しながら瑛が聞く。
後ろにはがいるし、こいつははね学に来ることもあるはば学生だし。
ヘタなことは言えない。

するとユキは、には見慣れた悪そうな顔で瑛に言った。
「最初は大学生くらいかなって思ったんだけど。・・・・高校生、だよね?」
「・・・ノーコメント。」
「当たりだ。しかもはね学?」
「ノーコメントだよ!」
瑛が不機嫌そうにカウンターに手をついて立ちあがった。

「瑛。お客さんになんて態度だ。」
総一郎がとがめた。

「客じゃないよ。その珈琲は俺のおごり。雨が小ぶりになったら出て行けよ。」
「こら、瑛!」
悪態をつく瑛をたしなめて、総一郎がユキに謝る。


「すいません。いつもはあんな態度をとらないんですが。今日はめずらしい制服姿のお客さんに甘えてしまったようです。」
総一郎の言葉は、ユキの言ったことを肯定してしまったようなものだ。
瑛は恨めしそうに総一郎を見た。

「じーちゃん・・・。」
「大丈夫、瑛。お客さん、瑛のことは秘密にしてもらえますか?」
「もちろん。僕も嫌な言い方をしましたから。」
「ありがとうございます。」
即答したユキに、マスターの顔と祖父の顔で笑顔を見せる総一郎。

「でも、いまさら取り繕ってもらっても嫌だな。できればさっきのままで話してもらえる?」
ユキが瑛に言った。
「OK。・・・あれ。」
瑛の目がまた、ユキが鞄から取り出したものを見つけた。

「マフィンだ。」
見覚えのあるマフィンだった。
まぎれもない、珊瑚礁お持ち帰り率ナンバーワンのマフィンだ。

「あぁ、ごめん。幼なじみがこういうの作るの好きで。僕はいつも味見役。」
「・・・・幼なじみ。」

ユキの方を見ながら、瑛の意識は背後のドアにいった。
そこでうずくまっているであろう、マフィンの製作者。


「なぁ、お前の好きな色って青?」
「うん?突然なに?否定しないけど。」
「いや、別に。アンタさ、一言余計なこと言うな?」
「アンタって、ひどいなぁ。僕は赤城一雪。」
「あーそう、そうか。赤城な。俺は佐伯瑛。」

「うん。よろしく、佐伯くん。それから、あたり。どうも僕は一言多い。」
「へぇ、自覚はあるのか。」
それすらも否定するかと思っていた瑛は、案外素直に認めたユキの様子に驚いた。
「あぁ。そのせいでさっきもケンカしたよ。」
自嘲気味に笑って、ユキが言った。

「誰と?」
「そんなの聞いて役に立つ?」
「じゃ言うなよ。」

「うん。でも聞いて欲しいんだな、きっと。ごめん、聞いてもらえますか?」
「・・・いいけど、別に。」
瑛はユキと並ぶように、椅子ひとつ空けてカウンターに座った。





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