1998.03.05

   テレビでクセナキスの紹介があった。戦争体験が根にあり、群れをなす動物や分子や何やらという彼の感じる自然を確率過程として捉え、それを音楽にする。勿論大きな構想としては作曲家の意思が働いているが、確率的な集団の音の動きが、絶えず予測できないという面白さを与えている。演奏は当然難しいが、聞いている方としては何か迫力を感じる。

高橋悠治がピアノを弾いた。浅田彰が語った。最後に複雑系とかカオスとかとの関連を申し訳のように付け加えた。そういう事なのかも知れない。ギリシャが崩壊した頃の混乱の中に生きて音楽理論を語った何とかという人の話も出てきた。クセナキスはギリシャの血を引いている。ギリシャは奴隷制の国家で、文化というものが生活や労働とは切り離されて独立し、後世に残されてしまった。その体制の崩壊。

司馬遼太郎はヨーロッパ人の個人主義+抽象的な神に対する中国の儒教に基づいた家族主義、日本の公的意識に見られる集団主義を良く対比する。帰属集団を超えては物を考えようとしない日本人に対して、ヨーロッパ人は普遍的な存在という大変抽象的な物から考えを起こす。これはギリシャだけでなく、というよりもむしろアラブ地方の宗教の影響であろう。ヒューマニズムというのは、アラブ地方から入ってきて住み着いたキリスト教の形骸化に対するギリシャ時代の自由の復権として考えられたが、ギリシャ時代の自由というのも生活意識を欠いた物であった。そういったヒューマニズム自身が抽象的な存在感を持っている。それに対して、日本人のヒューマニズムは集団主義の中で窒息しそうな個人の救済という意味を持つ。しかし、個人の背景に普遍性を持った存在は無い。中国のヒューマニズムは家族主義の弊害や悪事に国家という公的なものを対置する考えである。思想は必要性があって具体的な背景を持って出現する。言葉に騙されてはならない。処変われば思想もその位置づけも何もかも違うものになる。

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