2026.01.11
友人から紹介されて、江口圭一著「15年戦争小史」(ちくま学芸文庫)を読もうと思ったが、図書館は移転中の為借りられないし、最近は街に出るのも億劫なので、菅野莞による解説を観始めた。 これはもっぱら政治の側面から論じているのだが、戦争を後押ししたのは国民の意識である。そういう意味で、吉見義明『草の根のファシズム』(岩波現代文庫)も読もうかと思う。
さて、菅野莞の「15年戦争小史」解説は6章まで進んだ。46分。 これは疲れる。
基本認識:資源も金融も英米に頼っていたから、政界も経済界も英米融和という現実的な考えが支配的であり、自らの存在意義を確認したい軍部は焦っていた。農村は疲弊し、第一次世界大戦が総力戦となったことを研究した関東軍が、アメリカに対抗しうる国力を得るために、また自らの存在感を高める為に満州事変を起こした。軍規を破っても懲罰を命じた天皇の指示は無視された。これで歯止めが利かなくなった。日本が満州国と結んだ軍事同盟は日米安保とほぼ同じであった。日本が国際連盟を脱退したのはヒトラーが政権を握る3年前だった。日本はヒトラーのお手本になった。ところで、「日本の近代化と民衆思想」 安丸良夫 (平凡社ライブラリー)が菅野氏のバイブルだそうである。
菅野莞の「15年戦争小史」解説は9章まで進んだ。日本の支配層の考え方は、対英米協調路線対アジアモンロー主義(アジアを支配して英米に対抗する)の対立であったが、アジアモンロー主義(主に軍部)の内部が情緒的な皇道派と戦略的な統制派に分かれて、皇道派が敗北。天皇頼みで見通しのない 2.26事件で皇道派は一発逆転を狙ったが、天皇の逆鱗を買って、統制派はこれを利用して、以後統制派の天下となる。
中国は国共内戦で力を削がれていたし、そもそも満州は万里の長城の外側であり、生活形態も中華とは異なっていたから、本気で日本を追い出そうとは考えていなかった。そういうことで、満州支配を貫徹できたのだが、満州の資源は来るべき対米戦争には到底足りないことが判り、いよいよ華北に侵入していく(北支分離工作)。万里の長城の直ぐ内側、非武装地帯に傀儡政権(冀東防共自治政府)を作り、関税を下げて日本製品を輸出し、それで中国国内に浸透していく。アヘンの密貿易も狙いであった。しかし、蒋介石はさすがである。貨幣改革 銀本位制から不兌換紙幣へ。英国の支援。日本も誘われたのであるが、妨害したため排除された。この成功によって中国から円が排除された。また、中華の経済が侵略されるに及んで、ついに国共合作抗日戦線が結成された。この時点で満州攻略の主役となった石原莞爾は危険を察知して事態を収めようとするが、孤立して追放され、統制を失った日本の権力機構は個別集団の暴走のままに行き当たりばったりの政策を繰り出して、ますます泥沼に陥ることになる。
菅野莞の「15年戦争小史」解説。 国民党軍撤退後に勢いで南京に攻め込んで大虐殺を行った後、陸軍は国民党軍主力を探して広大な中国を彷徨い、国内に近衛師団を残したまま、全ての戦力を中国大陸に吸い取られた。補給路は絶たれ、貨幣改革によって日本の紙幣は通用せず。もはや略奪するしかない。事態を認知していた陸軍はドイツの仲介工作に乗ったが、近衛文麿は南京攻略に沸く世論を見て拒絶。その後、彼も共産党を警戒し始めた汪兆銘と組もうとしたが失敗。更に、ノモンハンでソ連に敗れた後、ドイツがロシアと不可侵条約。ドイツに裏切られて「不可解」という愚痴をこぼすしかない。これまで日本はドイツのお手本になっていたのだが、このころから、日本はドイツに置いてきぼりとなり、後を追うようになった。ドイツに見習って新体制運動を始めた。ここから日本の社会がファッショ化する。「大東亜共栄圏」という屁理屈もこの時からである。
遠すぎて部隊を送れなかった重慶を爆撃(世界最初の大規模な無差別都市爆撃である)。この頃ドイツがフランスを破り、日本はその恩恵でインドシナに進出。しかし、それ以上の進出には英米と闘わねばならない。ドイツがイギリスを負かすと期待したが出来ず。石油の備蓄は1年半しかない状態で、アメリカが禁輸。陸軍、海軍、天皇、全ての組織が保身のみを第一優先した結果、最悪の選択が対米戦争となった。しかしまあ、ここに及んでは、その決断を責めるというのは酷かもしれない。全ての始まりは満州事変にあり、あの時軍事規律に違反した将校たちを処分できなかった天皇の責任はいかにも重い。それによって、日本という国家のガバナンスが失われたのである。
菅野莞の「15年戦争小史」。 菅野莞の感想「我が国の戦争指導部が無定見であったかということをこんなにも見事に表現する記述は他書に無い。」日本の領土拡張:満州の一部→中国全土→東半球。その後の敗戦の結果として、日露戦争で獲得した領土を全て失っている。アメリカ・オランダ・イギリスとの戦争は「ハルノート」を受け入れなかったからであるが、ハルノートはポツダム宣言ほど厳しくはなかった。(満州は残せた。)この戦争の愚かさは明瞭である。対英米戦争には初期計画のみがあり、そのあとの見通しはドイツ頼みで全く展望が無かった(2.26事件と類似)。
14か月の天下の間、東南アジアの資源奪取を狙いとした。略奪飢餓。強制労働と虐待。中国大陸では粛清作戦。焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くし、「三光作戦」。大陸ではアヘンを売りまくって資金を得た。満州は産業振興どころか、戦争継続の為の兵站基地となってしまった。満州開拓団に土地を奪われた満州人を軍事工場で労働させた。国内には総動員体制として「隣組」による監視。指導者は自ら「全体主義」を自認している。
もはや人気を失った東條に代わり、天皇が直接戦争を指導し始めた。全ての産業が独占資本となった。しかし略奪した資源を運ぶ為の船舶はアメリカの潜水艦に攻撃された。国民は飢えたが、それでも、少ないながら海外からの資源にありつけた。東南アジアではもっと飢えた。
近衛文麿は敗戦を確信して、上奏文を出した。共産主義に侵されつつある軍部を切り離して親英米天皇を建てようというものであったが、非現実的だった。
トルーマンは、スターリンに8月15日での対日戦争介入を依頼しながら、原爆が開発されると、それを使って、ソ連抜きで日本を降伏させようとした。ポツダム宣言から、第12項(国体維持)が取り除かれた。日本に即時受諾をさせず、原爆を使う時間を稼ぐためである。ソ連は、原爆を見て、分配にあずかろうとして、予定より早く参戦した。
臨床心理学士 信田さよこのトラウマについての解説が紹介された。国家の暴力と家庭内暴力は連鎖している。従軍体験によるトラウマが帰国兵の家庭内暴力に繋がっている。
最後に、天皇の責任が問われる。昭和天皇は責任を取るべきだった。ただ、政治的混乱が生じたかもしれない。
学術的な本として、黒羽清隆「日中15年戦争」 (ちくま学芸文庫)が推薦された。通貨政策についてよく書かれているとか。
僕が子供の頃から、何となく感じていた大人たちの横柄さ。その起因は15年戦争にあったのかもしれない。企業内で時折感じていた無責任な暴走は関東軍に似たところもあった。新左翼諸派や全共闘にもそれは感じられた。それらは一種の爽快さでもあったのだが、この辺が難しい。15年戦争の背景にあった日本人の性格的な伝統。その辺を調べてみたい気もする。無謀な戦争に突入したのは日本人の無責任体質によるガバナンスの喪失からではある。けれども、これは戦争に突入する一つのパターンであって、日本人の体質でなければ、欧米諸国のようにまた別の体質からやはり戦争に突入したということではないか。ドイツの場合、戦争に導いたナチズムを反省すれば良かったが、日本には反省すべき思想が無い。体質を反省することはできない。反省すべきなのは日本人の体質ではなくて、その危険性を認識して回避することである。指導者には優柔不断ではあっても冷静沈着な人物を選ぶべきだろう。
日本人の性格について、「タモリ山中伸弥の!?」(NHK)で採り上げられていた。昔から言われていたことではあるが、最近はデータによる検証が出てきている。
日本列島の人類史で大部分を占める縄文時代には鬼界カルデラで大災害があった。考古学的にはその頃以来縄文遺跡にシャーマンを想定させる遺物が見つかっている。集団で祈ることでしか不安をぬぐえないような災害だったのかもしれない。日本人に見られる特徴的遺伝子が見つかった。D-M55 で、これは Y染色体の1グループ。日本人男性の30%だそうである。闘争を促すテストステロンが少ない。ドーパミンと関連していて、融和的で友人が多いというグループである。これが多いのが縄文時代以来だそうである。日本では、世界的にも珍しく、狩猟採集時代に大人数で定住していた。
弥生時代、海岸において大津波の痕跡。古墳時代においても、東北地域の古墳は津波の押し寄せてきたライン上にあって、明らかに津波を意識している。
不安を感じやすい性格は日本人の特徴である。セロトニントランスポーター S型遺伝子が発現しやすくて、これはセロトニンの回収ポンプが少ない。日本人の80%であって、これは欧米人の2倍。不安の裏返しとしては危機意識が高いともいえる。
結局、日本列島は世界でも例外的に火山、地震災害の多い場所であり、自然の猛威に対して畏怖を抱いてきたことから、「無常観」「人間は自然の一部に過ぎないという感覚」が育まれ、そのような性格が遺伝的に優位となったと思われる。「変動帯」の民。もう一つ僕が思うには、日本は大陸での抗争から逃れてきた民の集積場だったということもある。いわば敗者の集まりでもある。
ところで、鬼界カルデラの地下にはマグマ溜まりがあり、100年という長いスパンで見れば、また大噴火の可能性がある、という。
結局、社会融和的で付和雷同的な日本人であるが、一つは少数の暴走者に巻き込まれやすいこと、もう一つは日本列島の外に出て行ったときの、不安に促される暴走である。この二つが15年戦争の悲惨を生み出したということだろうか?
まあ、菅野莞の解説に沿えばそんなことになるんだろうが、日本が朝鮮半島や大陸に侵攻した歴史を眺めてみるのも大事だろう。まだ日本に統一国家が存在していなかった頃は、朝鮮半島南部と日本の間にそれほどの民族的な区別は無かった。日本の豪族達は鉄を朝鮮半島から得ていた。だから、百済が新羅に潰されたとき、統一したばかりの日本は百済再興運動に加担して出兵し、唐と新羅の連合軍に大敗していて、以後しばらく大陸との交流が途絶えている。(鉄の生産はその後日本でも出来るようになった。)豊臣秀吉が国内を統一したとき、朝鮮半島に出兵しているのは、戦国武将に新たな領地を与えるためだったと言われている。つまり軍隊を維持するためであり、15年戦争の始まりと似ている。この時はたまたま秀吉が亡くなったために、うまく撤退できた。その後、明治維新の後、西郷隆盛がやはり同じ理由で朝鮮半島に出兵しようとしたが、抑え込まれた。今は国力を高める時期である、という論理である。日本が近代的国民軍を整備するに至って、日清戦争、日露戦争、という対外戦争の時代が始まった。この頃まではガバナンスがしっかりしていたのだが、帝国主義侵略戦争ではあった。その理念は第一次世界大戦後に一応否定されたはずなのだが、日本の支配層にも大衆もその理解はなかった。反省すべき思想があるとすればそれだろう。日本は拡張していかなくてはならず、必ずや英米との戦争になるから、そのための資源を得る為にまずは満州を制圧する、という戦国時代の延長のような論理そのものが、問題であった、ということである。