2015.02.15

     昨日借りてきた本は宇沢弘文「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新聞社)である。昨年彼が亡くなったときに内橋克人がラジオで追悼しているのを聞いて初めてこの人を知ったくらいであるから、僕は相当な経済学音痴ということになる。その時に図書館で予約しておいたから、かれこれ半年。内容的には彼の米国での研究者時代の思い出や日本に帰ってから取り組んだ公害問題、環境問題、成田空港問題、最終的に辿りついた資本主義でも社会主義でもない制度主義(社会的共通資本を市場経済から切り離す)の提案である。元々は2003年の「経済学と人間の心」の追加版に池上彰が序文を書いたという感じである。最近の政治状況を見て、講演録などを追加して世の中に訴えたい、という気持ちで出した。第一線からは退いているということもあって、全体には「老いの繰言」という感じは否めないが、本当に誠実な学者だったんだなあ、と思う。

      宇沢氏は米国でリベラルな伝統の中で計量経済学の理論を研究していたのだが、新自由主義の流れの中にフリードマンという極端な合理主義者が出てきて人間性を無視した利潤追求「市場原理主義」を宣伝し始めた。彼の合理的期待形成というのは、個人が自分の経済的選択の結果を全て見通しているという前提であるが、そうであればそもそも市場というものが形成されない。トルクルダウン理論も彼によって提唱された。彼の思想が出てくる歴史的背景には太平洋戦争中でのマクナマラによるKillRatioという考え方がある。日本人1人を殺すのに出来るだけ安いコストでする方法を考えた。その結果が新しい焼夷弾(ナパーム弾:木造家屋が燃えやすくなるように改良)である。原爆はその思想の集大成であった。1947年にフランク・ナイトとフォン・ハイエクが、ナチズムと共産主義からヨーロッパの伝統を守らなくてはならない、として、新自由主義を宣言した。フリードマンはその狂信者であって、ナイト教授からも破門されたくらいである。ベトナムでも核兵器使用を提案している。(アルカイダに破門されたイスラム国みたいなものか?)フリードマンは1929年の大恐慌後に再発防止策として制定された銀行業務と証券業務の分離法を廃止することを最大の目標としていた。(1999年にそれが実現し、その後の金融恐慌の原因となった。)当初大学では異端であったフリードマンの思想は、ベトナム戦争を経て、シカゴ大学の主流となった。宇沢氏自身は大学当局が学生の成績を徴兵委員会に送ると言い始めた時に反対するために学生の成績を付けないという提案をして、認められたのだが、その後FBIに狙われていることを知って、日本に帰国したのである。ベトナム戦争当時の学生達の話も胸が痛む。多くの正義感に富んだ優秀な学生が反戦運動に加わり、行方不明になっている。

      他の話題としては、オーストラリアのキース・フリアソンという学者であるが、彼は戦時中日本軍の捕虜だった。第二次大戦中の捕虜の死亡率は、ヨーロッパ戦線で5%、シベリア抑留で12-15%、に対して日本軍の東南アジアでは25-27%と異常に高かったらしい。「国体の本義」に従って「天皇を中心とした神の国」を叩き込まれた日本兵は残虐である、という物語は今でもオーストラリアやアジアの人びとの記憶に残っている。森首相が2000年に「日本は天皇を中心とした神の国である。」と公言したとき、多くの人がそのことを思い起こしたのである。オーストラリアと言えば、1990年にフロッピーディスクの販売支援で出張したことがある。街角に黒っぽい服装をした老人達がたむろしていて、こちらを不審そうに見ていたその視線が気になったのだが、そういうことだったのだろうか?

宇沢弘文の本の続きを読んでいる。

      彼の研究生活を通しての大学教育の考え方について纏めておく。ジョン・デューイの教育思想がまずある。教育の目的は1.社会的統合(社会生活に適応できるような訓練)、2.平等主義(教育の機会均等)、3.人格的発達(それぞれの人の生来の資質を生かす)、という順番になる。彼自身はウェブレンと共に大学を設立した。New York School for Social Research である。そこではカリキュラムを学生自身が決めて、自ら設定したテーマについてゼミ形式で学ぶ。一般的な意味での講義は無い。

      宇沢氏は理想的な大学のあり方をケンブリッジのカレッジで経験した。そこではカレッジの自治が徹底されていて、学生の入学もシニアーチューター(引退した学者)が中心となって一人一人に面接調査して決める。徹底したエリート教育である。大学はリベラルアーツ(自由な知識欲を満たす)を中心として、周辺のカレッジで専門(生産倫理に基づく)を学ぶ場である。(かって丸山真男が東大改革を提案したのも同様なシステムであった。)ただ、ケンブリッジでの理想的教育の背景には大英帝国の植民地政策があった。植民地からの搾取によって大学の運営費が支えられ、その大学で植民地のエリートを育成する。社会の知的貴族が国家を支配するというハーヴェイ・ロードの僭見である。大学内では徹底した女王崇拝に基づくナショナリズムが鼓舞される。大英帝国の崩壊と共にこのエリート養成システムは機能不全を起こし始めている。日本における同様な教育システムは東大であるが、そこにはリベラルアーツを核にする、という思想が最初から欠けている。つまり、東大官僚は国家を支配しているが、必ずしも最初から知的貴族ではない。国家や経済界からの要請に右往左往している今日の大学では宇沢氏の理想は不可能であるが、それに対する方策は無い。宇沢氏は教科書を通して小中高校の教育にも触れているが、これは観念的な評論に留まっている。

      アダム・スミスに始まる古典派経済学の原点は彼の「道徳感情論」(1759)にある。人間の本姓を「共感」に見出し、他者の尊厳と自由な表現として定義される人間性を保証するような社会を目指す、というものである。その為には経済的な基盤が必要であり、彼は当時のイギリスの国情に合わせてその方策を「国富論」(1776)として纏めた。経済社会のこの2つの側面、つまり国民の所得や消費や物価水準といったマクロ経済と多様で文化的、人間的で日々変化する営みというミクロな活動の有様を、ちょうど気体の圧力や温度といったマクロな物性と分子の自由で確率的な運動というミクロな状態に類する定常状態(これは厳密には平衡状態であるが)とみなし、それらを両立させるという考え方を打ち出したのがジョン・スチュアート・ミルの「経済学原理」(1846)であった。

      資本主義を原理主義的に徹底すればマクロ経済が限りなく発展することになり、その歪がミクロな生活現場では格差として現れて、やがて恐慌であるとか、大衆暴動、あるいは戦争が帰結される。他方、社会主義を原理主義的に徹底すればミクロな生活保障を重視して人々の自由な経済活動を抑制することで、マクロな経済基盤を衰弱させて、やがては毛沢東の大躍進政策の失敗やカンボジアポルポト政権による悲劇のようになる。ソースティン・ウェブレンはそれらの解決策として、制度主義を提唱した。つまり、社会的活動の中で自由な市場に任せる部分から社会的共通資本を切り離し、それを国家からある程度独立した専門家集団の自治に委ねる、というものである。際限無い利潤の追求ではなく、社会における人間性の維持を目的とした運営をする。社会的共通資本とは、具体的には、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政等)。問題はこの「専門家集団」ではあるが。。。

      近代以前の社会では限られた地域で生活を維持するために自然環境に頼っていたから、その維持管理が社会の文化そのもの(宗教でもある)であった。近代思想は人間に神から授かった自然支配の権限を与えた。自然は法則に従う機械に過ぎない、というわけである。(文化という概念は近代思想では生存に関与しない人間の余暇活動に限定されてしまった。)だから、その時の人間が自然を最大限に利用し尽すために「技術」を開発する。利用し尽くされれば、地球上の他の地域、更には宇宙にまでも出かけて利用しようとする。具体的な被害(公害)が無い限り、この誘惑に抗うのは難しい。地球環境国際会議は「専門家集団」としてのその試みである。

      日本の集約農業は空海が中国経由で学んだスリランカの溜池灌漑技術に由来する。871年に讃岐で大規模な灌漑工事を行ったのがその発端であった。スリランカは農業の先進技術を維持して栄えていたが、イギリスの植民地政策により、森林と農地が破壊され、茶とゴムのプランテーションが作られることで、完全に破壊された。現在でもまだ回復の途上にある。森林面積は当初の70%から20%にまで減少している。

      産業革命によって荒廃した都市環境の改善のために、19世紀末にエベニーザー・ハワードは「田園都市」を構想した。20世紀になって、この構想を発展させて都市を設計したのがル・コルビュジェである。「輝ける都市」として、機能的にブロック分けされて、広い道路で繋がれた高層建築群が美しい景観をなす近代都市が世界中に広まった。筑波学園都市はその典型であったが、その後都市での人間的な交流の欠如が問題となってきた。ジェーン・ジェイコブスはそれとは正反対の都市構想を提案した。(「アメリカ大都市の死と生」1961)1.街路を狭く折れ曲がらせて車を入りにくくする、2.古い建物を残す、3.街区を機能別けしないで住民の多様性を保つ、4.人口密度を高くする、である。筑波学園都市と同じ頃に作られたベルギーのルーヴァン・ラ・ヌーヴはその典型である。街の中央に駅を設けて、そこから歩いていける距離に街を作っている。これを設計したのは大学である。今日大学は街から追い出されて郊外に孤立する傾向にあるが、それとは正反対に大学は街の生活を必要とし、街は大学を必要としている。京大などはこれらの分岐点にある。左京区に見られる街と大学の一体化と、そこから追い出されて桂の山の上に孤立する工学部。。。最後に宇沢氏は石川幹子の「都市と緑地−新しい都市環境の創造に向けて」という著作を採りあげて21世紀の都市のルネッサンスに期待している。

<目次へ>  <一つ前へ>  <次へ>