2007.09.12

      玉木宏樹「音の後進国日本」(文化創作出版)は再読である。純正律について復習。完全5度と完全4度を積み重ねて作られた音階は自然なもので、ドレミソラまで出来る。(シはかなり外れるのでメロディーにはあまり使われず、半音上がったり下がったりしていたが、後にドミソの和音が出来上がってから、ドに到る心理的な効果を求めて半音高いシが定着した。)世界中の民謡はみんなこの5音音階をベースにしていて、これに半音音程を取り入れて情感を盛り込んでいる。何処から始めるかで民族性が出る。ギリシャ人は数学的な志向をしていたから、5度と4度を更に先へ進めてピタゴラス音階を作ったが、これも民族音楽である。いずれにしても長3度は広すぎて協和しない。ところが、反響の良い場所で合唱をする傾向のある民族(東欧)では基音に対する 5倍音(2オクターブ上の長3度)が意識されるようになる。トランペットで奏するときも自然にそうなる。ホーミーもそうである。この音程が教会に取り入れられ、4:5:6という最も協和した和音が作られた。ファとドとソの上に4:5:6を積み重ねるのである。厳密に言うとファに対する完全5度上はドよりも少し高いが、これは我慢して抑える。こうして作られた音階が純正律である。そうなると、ピタゴラス音階と整合性が取れなくなるし、レファラ、ミソシが非常に汚くなる。そこで純正律を多少修正して中全律が作られた。和音が発明されると、それを使って音楽を弁舌のように使うことが出来る。つまり不協和の和音が協和した和音に向かって動いてく心理的必然性が生じてきて、それが話し言葉のように始まって終わるまでの力学的な傾向と結びつく。これが調性である。ロマン派までは基本的にこの音階を使っていた。ピアノの調律は基本的に演奏者が行っていた。中全律は和声的に大変美しいが、遠くはなれた調に転調すると悲惨な結果になるから、転調に制限があった。そこでピタゴラス音階に立ち戻って5度を妥協したのが平均律である。普及し始めたのはワーグナー、ドビュッシーの時代である。調性が曖昧になっていったのはその為である。ピアノは現在平均律で調律されている。完全5度に合わせた後で、少しだけ間を狭くして狂わせて行く。この狂わせ方が調律の個性になっているから演奏者にはもはや出来ない仕事である。現代のピアノはリズム的で旋律的な楽器であるということになる。実際多くのキーを叩けば叩くほど音が汚くなる。何の和音だか、そもそも和音の感じすらしない。このような楽器を使って耳を作ってしまった人は不幸としか言いようが無い。音楽を学ぶにつれてそこから脱皮しなくてはならない。しかし、不協和音を使った緊張感のある音楽には適している。

      という次第で、この人は美しい協和音に対して敏感である。付属のCDで平均律と純正律でドミソを比較すると確かに違う。しかし協和していれば美しいかというとそうでもないのではないだろうか?管楽器同士の合奏では確かに協和に対して多少敏感になるし、プロの演奏家であれば、誰でも正確に合わせられるようであるが、沢山の音が入ってくるとまあそんなことを気にしていては音楽の流れが失われるような気もする。ましてピアノの音など、あるタイミングでストンと入ってくれば数ヘルツずれていようとどうでもよいのではないだろうか?

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