2011.07.11

   今日はとても暑くて外に出られない。開沼博の「フクシマ論」を読むが、なかなか進まず、録画しておいたパリオペラ座公演のバレー「シッダールタ」を観た。劇場で観ないと鑑賞にはならないのだろうが、まあどんなものだか興味があったのである。インドの北方の小国の王子たるシッダールタが世の中に絶望して家出をしてから修行により悟りを開くまでの物語であるが、設定としては時代に拠らない内面の劇ということである。斬新といえば斬新かもしれない。

    最初に兵士と思われるヘルメット(というよりは兜の頭)を被った男の群舞である。これはどうも王国が民を抑圧しているということの象徴のようであり、兜と格闘する男の仕草から言うと、兵達はそのことにやや疑念もあるのであろう。一転して宮中である。国王と宮廷の女達、シッダールタと美しい妻の様子が描かれ、シッダールタは確かに無表情で何か悩んでいる感じはする。振り付けはモダンである。古典バレーの世界では美の基準がはっきりしていて、それは直線と円、身体の伸張と垂直志向である。多分ギリシャ−ローマ以来の天上の秩序を理念としてバレーが想定されていて、あくまでも民衆や宮廷の舞踊とは別世界なのである。クラシック音楽と事情は同じである。フランスで完成され、ロシアで洗練された。その後主としてアメリカでそれへの反発としてモダンバレーが生まれる。自由な動きと自由な感情表現である。ここでのスタイルはモダンでありながら古典の規範をある程度遵守しているという感じがする。殆どは様式化された動きであるが、古典的なものとは遠く、ロボットのような不自然な動きであり、強いて言えば動物の動きのカリカチュアみたいでもある。それでも要所要所が古典的で、まあ要するに中途半端な感じがする。これが東洋の舞踊だとはっきりしていて、曲線と屈曲、大地志向であるが。

    さて、また一転して兵士と死体(女)の対による群舞である。兵士が死体を引っ張ったり折り曲げたりひっくり返したりする。これはまあ判りやすくて、兵士による民衆の虐待である。次にまた一転して、今度は天使の群舞である。天使ではないのだが、薄絹をまとった女達である。その中に悟りの化身が登場してくる。こういう発想もまあ面白いものではある。悟りというのはどうにもとらえどころがないものだから、こうして具体化しなくてはならなかったということである。ここでのスタイルは古典的である。明らかな垂直志向であり、天上を志向している。その群舞にシッダールタが参加しようとするが、悟りの化身に拒絶され、やがて天使も悟りの化身も消えてしまい、シッダールタは苦悩するのである。そこに登場するのがまた妻であり、シッダールタは妻に慰められる。しかし、従兄弟のアーナンダが現われてシッダールタを連れ去る。これが家出(出家というべきか?)である。

    2人は要するに宮廷に飽き足らず世の中を見るべく家出するのである。そこに今度は悟りの化身が装置を使って空中バレーを演じる。シッダールタとの踊りなのだが、付かず離れず、やがて空中に去っていく。舞台変わって次は棒を持った男達の群舞である。これは何を意味するのか良く判らないが、世の中の生産活動なのかもしれない。そこにシッダールタとアーナンダが絡み、更に3人の女も絡む。何だか旧ソ連での社会主義バレーのような感じである。労働者が金槌やらドライバーを手にして体操のようなダンスをするものである。シッダールタとアーナンダはそれぞれが2人の男に捕獲されたとき、空から巨大な機械装置が降りてくる。大きな自動車の架台のようである。その上に登ったり降りたりしながら踊る時にはシッダールタもアーナンダもそれぞれ女と一緒になっている。この辺までは要するに世間におけるさまざまな煩悩を体験する、というシッダールタの修行ということであろう。

    装置が去った後、悟りの化身とシッダールタの2人の踊りになる。Pas de deux ということではあるが、古典バレーのような華やかさは無いし、正直言うとあまり美しいとも思わなかった。ロボット的動物のギクシャクした仕草で組み立ててある。洗練というものを感じない。舞台には大きな家が吊るされている。これは何の象徴なのだろうか?判らない。やがて天使達の群舞が加わり、シッダールタはそのさなかに座禅を組んで瞑想する。やがて今まで登場していた人たちが影のように静かに再登場して背景のように取り囲むと、これは多分王だったと思うのだが、偉そうな人がシッダールタに敬意を表する。つまり悟りが開けたということであろう。このときには悟りの化身はもはや薄絹を纏っていない。裸体である。まあ、悟りがバレリーナなのだから、それと一体化というと、こういう表現になるのだろうが、あまりにも安直ではないだろうか?最終的に悟りの化身はシッダールタを膝の上に横たわらせる。つまり釈迦の涅槃である。ああ、そう、音楽について何も記録しなかったが、指揮者はなかなか美しい女性であったし、打楽器を多用した現代音楽で、ちょっと東洋的な感じもあった。

    結局シッダールタの悟りというのは何だったんだろう?苦悩とは何だったんだろう?青春時の過剰な正義心と自らの無力との葛藤から家出して、世の中の誘惑に溺れる中で、それらを客観視して、全てを無化してしまう境地に至る。結局世の中の矛盾はそのままである。よくある事ではないだろうか?学生運動の活動家も似たような経緯を辿る事がある。結局仏教を作ったのは弟子達である。シッダールタはそのための物語として利用されただけなのではないか?キリスト教もそうではあるが。

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