2011.07.10

     昨夜は12時過ぎに寝たが、3時半頃女子ワールドカップでの準々決勝、日本−ドイツ戦が始まったので起き出して見ていた。体格が大きくてスピードとキック力に優れるドイツはワールドカップ2連覇中である。対する日本は小さくて素早い。今年は特にパスワークが優れたチームになっていて、この間のイングランド戦では疲れのせいか相手の気迫の所為か負けてしまったけれども、このドイツ戦ではコンディションが良いようであった。ともかくよく走るしテクニックではドイツより上である。したがって試合は緊迫状態のまま延長戦後半まで 0:0のままであったが、カットされた球が沢に渡ると直ぐにゴール右を目指して走り出した丸山に見事なパスが渡り、狭い角度からの思い切ったシュートがゴールキーパーの左を掠めて入った。全体に日本のパスは殆どがダイレクトであって、それは受け取り側の動きが早くて適切だからであるし、パスを受ける前から状況把握が常になされているということでもある。そのやり方がこの延長戦まで衰えなかった。守備に関しては前線からの囲い込みの守備が徹底されていて、実際小さい身体を相手とボールの間に滑り込ませて奪う場面が多く見られた。前回のイングランド戦ではそこから直ぐに攻撃に入ってまた取り返されたりしていたが、今回は相手が密集している時には無理をせず一旦安全なところで球を保持してから攻撃に移るという慎重さを見せていた。ドイツは何時までも疲れることなく続く日本のプレッシャーに手を焼いていて、延長戦に入るとやや疲れからミスが目立ち始めた。こういう体力の差というのが最終的には結果に出たものと思われる。

    今日は暑いし寝不足で疲れているので、一日中外に出ることも無く、昨日借りてきた奥泉光の「シューマンの指」を読んだ。シューマンに関心を持ったのは30年以上前、雇われ研究員としてカナダに居た時である。同じ下宿に同じ運命の音楽好きの日本人が居て、彼に教えてもらったのである。ただ、当時は楽器は持っていて合奏などもやってはいたが、CDもステレオも無く、音楽を聴く機会は大学内での演奏会や街での比較的安い演奏会やFMラジオ位であった。それでも、大学の本屋で Alan Walker という人のまとめた "Robert Schumann - The Man & His Music" Barrie & Jenkins(1973) を買って読んで、なかなか面白い人だと思った。ジャズで Bud Powell に惹かれるのと似た傾向かもしれない。つまりは狂気にまで至る程の音楽表現、とでもいえばよいだろうか?結局 バッハやモーツァルトに次いで好きな作曲家となった。シューマンについてはまあ一般的な理解が確立しているので、ここではあまり説明しない。帰国してからシューマンの曲は殆ど聴いたと思う。室内楽作品はできるだけフルートで演奏するようにしているが、フルートは勿論ピアノパートの演奏上の難しさはなかなかのものなので、未完成のままである。そういうことで、この小説は図書館で予約したのだが、順番が来るまで半年もかかった。

    一応手の込んだ推理小説みたいな筋立てになっているが、僕にはそんなことはどうでも良くて、架空の存在かどうか判らなくなるのだが、主人公の天才ピアニストの語るシューマン論がひたすら面白くて、久し振りに聴いてみようという気になった。確かにシューマンの音楽は暗号的、物語的に出来ていて、そのことが判らないまでも、何か謎めいた音楽の印象を与えるのである。分析など出来る人は限られているのであるが、ぼんやりと聴いているだけでも音楽の裏側にある極めて個人的な想いが伝わってくる。それがあまりにも真剣であるが故にある種の狂気を想像させてしまう。

    さて、小説の筋立てとして面白いところは、高校の音楽好きがシューマンに倣って「ダヴィデ同盟」を結成し、雑誌を発行するために、おのおの考えるところを書き綴る回覧ノートを作る、という設定である。こういうことは高校生の頃に僕も参加した経験がある。クラス日誌をその回覧ノートのようにして何人かで占拠してしまったのである。他の人は随分迷惑だったろうと思うのだが、そういう青臭い処は高校生という年齢層の特質でもある。親友関係(特に男同士?)というのはそういった自己顕示と過度の親密性で成り立っているのかもしれない。実は、この小説自身がその「ダヴィデ同盟」の回覧ノートに基づいている、という設定なのであって、その内容が現実だったのかそれとも幻想だったのかは最後まで判らないままである。

    事件はある女子高校生の殺害である。それはまあどうでもよいのだが、そこへの経緯として天才ピアニストの絶望があった、というのも面白いところである。つまり、このピアニストはどうやら記号としての音楽とその意味とが結びつかなくなる病(音楽という言語における一種の失語症)になったらしいのである。楽譜をどこまでも正確に解釈して演奏することが出来るのであるが、そこに音楽が感じられなくなる、というのはとんでもない苦しみである。「演奏されなくても音楽はそこにある。楽譜があればそれで充分である。むしろ演奏が出来なくなった時に初めて音楽が聴こえる。」という何度も出てくる超越論的言説はその苦しみから出ている。演奏することで音楽が壊されてしまうのである。その演奏できなくなるということが表題にある指の喪失ということなのだし、シューマンも若くして指が動かなくなるという障害に見舞われて作曲家に転じるのである。

    「シューマンの音楽は突然始まる。まるでそれまで何も聴こえないけれども豊かな音楽が既に鳴っていて、楽譜にはその途中から、あるいはその最後がちょっとだけ書かれてあるかのように。楽譜が実際に始まっても、そこに書かれた音は聴こえないけれとも鳴っている豊かな音楽のほんの一部、鉱脈の露頭のようなものである。」というのも共感するところがある。ベートーヴェンが極めつくしたピアノソナタと言う形式、晩年には更にその形式を壊しながら可能性を探ったのであるが、その継承者がシューマンであると言われる。小品を集めてその間に深い関連性を持たせるような、つまり自由度を高くしながらも統一感のあるシューマンの作品群がそうである。そこにおいてはソナタ形式の主題、副主題、弁証法的止揚、といった判りやすい筋立てが見えないのであるが、小品間を繋ぐ、その繋ぎ目に本当の音楽が隠されているのである。まあ、この辺の解釈も面白いと思った。

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