2006.10.14

      和歌山行きの電車とホテルで篠田節子の「聖域」(講談社文庫)を読んだ。これまた引き込まれて一気に読んでしまったが、読後はしばらく気分が憂鬱になった。どうも小説の世界に入り込んでしまうとその気分に侵されてしまう。内容としては死者と生者の関係とでも言うべきであろうか?

      東北地方には縄文文化からアイヌ文化への流れがあって、平安時代にそれが朝廷によって征伐されるわけであるが、拠点は支配されても、生活や宗教は根強く残っている。そういうことを背景にして当時比叡山から派遣された僧が邪宗と抗う様を小説にしたというのがひとつのプロットであり、その中で稲作文化とは別の軸で比肩しうる水準にあった狩猟採集文化が語られていて興味深いのであるが、その小説を書きかけて自ら巫女となった作家を追いかけて雑誌社の社員が体験する死者と生者の関係が本当の主題である。

      問題は巫女となったその女流作家であるが、彼女は取材する内に東北地方での伝統の中で派生してきた死者を自らに乗り移らせるという仕事を引き受けるようになってしまった。「マエストロ」と同様に終盤でこの巫女が自らを語る部分がある。何となく能でシテが自らの来歴を語る部分のような感じである。彼女は疎開先が東北地方であって、そのときに当時口減らしの為に家族が捨てられていた山に登り、そこで巫女の修行に落ちこぼれて捨てられて死にかけている少女に出会う。この体験が彼女の原点となっている。

      さて、この死者を蘇らせる仕事というのは、結局のところ、対峙する客である生者が記憶の中に没入するプロセスであり、巫女はそれを補助する術を心得ているということである。まあ一種の心理現象なのであるが、その心理現象はこの雑誌社の社員の心の中で何回か繰り返され、最後には小説を完成させたいという目的で探していた巫女なのであるが、彼の恋人との記憶に浸ることが巫女に会う目的となってしまうのである。記憶は繰り返す。偏執的な夢のように同じシーンで自動的に繰り返される。「現実にあるものは壊せる。生きているものは殺せる。しかし記憶の中に生きているものは壊せないし消せない。どうしても無くしたければ、自分の頭をぶっ壊すしかない。」という台詞に全てが籠められている。

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