2008.09.10

    図書館の新刊コーナーで堀田純司「人とロボットの秘密」(講談社)を借りて読んだ。なかなか面白い。この人はノンフィクションライターで、日本のロボット研究者をインタビューして纏めた記事である。よく本質を把握して書いている。デカルトの心身二元論に基づいて進行した人工知能の失敗に学び、身体と心を一体のものとしてヒトと理解するために、人型ロボットが研究されている。日本のロボットは漫画で先行されている。鉄人28号、鉄腕アトム、という伝統の上に永井豪による「マジンガーZ」は新たな主人公が巨大ロボットの頭脳として乗り込み一体化するという発想が誕生した。ロボットの受ける危険性を我が身にも受け取ることによってロボットが自然に人間化すると同時に、自らの身体的未熟から脱皮することによって読者の少年達に夢を与えた。

    では、機械だけによって知能は実現できないのだろうか?石黒浩は、「情報を取得し、それを解釈し、行動する」という現象が知能であって、知能と感じるかどうかは主観的なものだという。知能を感じさせるために何が必要なのか、を知るために人間そっくりのアンドロイドを作っている。既に無意識的にはアンドロイドは人として受け取られている。意識的には2秒くらいの間だそうである。

    中田亨は人間にとって記号論理の能力は付加的なものであって、普段の日常生活で現われる喜怒哀楽は犬や猫と大して変わらない、と考える。

    前野隆司は、触覚が外界との情報とのやり取りであるように、意識もまた思考や記憶といった内部との情報のやりとりに過ぎない(受動意識仮説)と考える。意識についての3つの謎。1つ目は私という意識はどこからくるのか?2つ目は脳内に去来する情報処理の洪水の中で任意に意識を向けることが出来るのは何故か?これらは意識が主体であるという幻想から生まれた謎であって、脳や身体の活動はもともと意識に先行しているのである。3つ目は、ではなぜ意識があるのか?記憶には言語として表現できない非宣言的記憶と表現できる宣言的記憶があり、後者は意味記憶とエピソード記憶がある。この後者は自分の行動や体験の履歴であり、鳥類や高等哺乳類にしかない。時間経過に伴って現われる因果関係のシミュレーションが可能となる。このために意識が必要であり、それはありありとした意識体験(クオリア)と伴う。それなしには情報を選択的に記憶しておくことができない。意識が行動の後で生じることはリベットが証明したが、17世紀の哲学者スピノザは「人間は自分の行動を意識しているが、自分をそれへ決定する原因は知らぬ故に自分を自由だと信じている。」と言っている。

    吉田和夫はロボットに存在理由を与える。こういう場合はこうする、という命令の集積としてプログラムを入れるのではなくて、状況を認識し自らの使命に沿って評価し、自らの行動や他のロボットの行動を総合的に判断するためのプログラムを入れる。状況がおかしくなると判断基準をより高次であいまいなものに変えていく。

    結局のところ、人間を主観から捉えれば絶対に機械では再現できない存在であるが、機能として捉えればいくらでも近似することが出来る。ただし、その機能はとても一人の専門家に把握できるものではない。高西淳夫は多くの専門家を巻き込んで、多彩な機能をヒューマノイドとして実現してきた。多賀厳太郎の歩行サイクルの考えによる2足歩行ロボットも作っている。ちゃんと腰を振りながら脚を伸ばして歩くロボットであり、アシモなどの歩き方に比べて柔軟性がある。フルートを吹くロボットにおいても芸術表現も試みる。そもそそもヒトの情動というのは身体と環境が相互作用しながら時間的に発展していくという意味で力学系として記述可能な筈である。その方程式を探るために表情ロボットを作っている。

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