2011.09.22

      皆川達夫の「中世・ルネサンスの音楽」(講談社学術文庫)を読み終えた。随分古い本で、大分前に京大図書館で以前の新書版を偶然見つけて斜め読みして素晴らしいと思った。こんなにしっかりと書いてある本は他にない。とりわけ注目すべきは記録に残されていない民衆音楽を絶えず意識しているところである。音楽の正史はキリスト教の為の音楽から貴族、そして都市の商人達のためのものへと変わっていく訳であるが、その材料は正史に残されていない民衆の素朴な音楽である、ということで、それが浮かび上がるように記述している。3度音程に対する好みにしても、かなり昔から民衆レベルで見られた現象であるし、多声化や単声化といった構造の変化にしても、表面的に捉えるのではなく、その背後に民衆音楽を見据えている。だからヨーロッパ音楽の起源とはいってもそれほどすっきりとは行かないのである。

     「前に私は「グレゴリオ聖歌の成立」の項で、この聖歌のなかに三度の音程の積み重ね、大きな跳躍、ひとつのモチーフを核として楽曲全体を構成しようとする造形性、終止に向って一貫して流れていく合目的な論理性、いうならば、「ヨーロッパ音楽独自の形態」とでも呼ぶべきものを指摘しておいた。それは実はグレゴリア聖歌におけるより、中世騎士世俗歌曲のなかにより明確に認められるものである。」

     「ヨーロッパの多声音楽は9世紀よりはるか以前から、単旋律の音楽と併存して行われていたものと思われる。それはおそらく民俗的なものとして、即興的に歌い続けられていたものであろう。・・・しかし、10世紀前後になると、その民俗的な多声唱法は、次第に教会や修道院に受け入れられるようになる。・・・秩序づけられ体系化されて、理論と記譜の対象となる。」

     「9世紀から12世紀に至る多声音楽の歩みを単純な一音対一音の平行オルガヌムから反進行を多用する一音対多音の自由オルガヌムへの発展、という風に発展段階的に図式化して捉えるのは極めて危険である。それは単に多声音楽技法理論の歴史にすぎない。」

     さて、ルネサンス音楽とはグレゴリア聖歌に縛られながらも自由度を増していった多声音楽が、いよいよ人々の自由な感情を解放するような、そして均衡の美を湛えたポリフォニーとして開花したということである。(次の時代のバロック音楽は、オペラの発展に伴う通奏低音とモノフォニーの不均衡なまでの劇的表現で特徴付けられる。バッハはそういう意味ではバロックの典型とは程遠く、ルネサンス音楽の遺産を器楽と宗教音楽に発展させた時代遅れの異端であったし、他方では24の長調と短調を同等に扱う方法を整備して次世代に大きな影響も与えている。)

     「もろもろの事実を考え合わせて、私達は、音楽におけるルネサンスとはデュファイの創作に始まり、展開していったと言い切ってしまって差し支えないであろう。彼は、中世のもろもろの技法の総合者であり、同時に新しいルネサンス音楽の開拓者であった。」

     「ルネサンス音楽のひとつの頂点は16世紀初頭のフランドル学派のジョスカン・デ・プレである。彼は当時の王侯貴族に対して自由に振舞い、ただ自己の要求のままに作曲した。通模倣様式(各声部が同等に模倣する)の均衡のとれた構成、調和とプロポーションの重視、明晰な表現、歌詞の内容と音楽の一致はルネサンス音楽の典型である。」

     その後、イタリアのモンテベルディのマドリガーレやパレストリーナの教会音楽、フランスのジャヌカンのシャンソン、スペインにおける器楽音楽、ドイツにおけるルターのコラールや受難曲、イギリスのダウランドのリュート曲、とその中心地がシフトして行きながらルネサンス音楽が発展し、バロック音楽(絶対王政の音楽)への素地を作る。

     最後に、この頃のルネサンス音楽はポルトガルからの宣教師を通じて日本にも伝わっている。大内義隆、大友宗麟、織田信長、豊臣秀吉はルネサンス音楽を聞いている。後にキリスト教が弾圧されるまでは立派な聖歌隊が育成されていた。エピソードとして、器楽による6つの変奏曲という形式が、筝曲の六段に影響していると言われる。

     ルネサンス音楽は合唱が主体である。30年以上前、一緒に高校で講師をしていた物理の先生がマドリガーレの歌い手であって、こういう人も居るのかと思ったものであるが、僕自身は合唱は苦手である。しかしまあバッハのフーガの由来を考えるとルネサンス音楽も系統的に聞いてみようかという気になるのである。

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