2006年(11月12日)
    今回は和歌山駅の4階の本屋で買った茂木健一郎「クオリア入門」(ちくま学芸文庫)を読み始めたが、途中で止まった。根本的な発想がちょっと理解に苦しむ。「反応選択性のドグマ」というのは、外界と脳の中のニューロンの発火パターンの間の対応関係を追及すれば心が判る、というものである。神経生理学ではそのように考えざるを得ないし、そのために脳のどの部分が興奮しているのかを研究するわけである。しかし茂木氏はそれを否定する。彼の依拠するところは「マッハの原理」である。それは完全相対主義とでも言うべき考え方で、個々のニューロンの発火それ自身では意味を持たず、他のニューロンの発火との関係において始めて意味を持つ、というものである。もともとは、この世の出来事は全てが相互に関連していて、その関連性によってのみ出来事の意味が生じる、という考え方で、アインシュタインの相対性理論の思想的なバックボーンとなったし、世界全体を想定すれば、確かにそのとおりである。

しかしここで考えているのは世界全体ではなく、たかがひとりの人間の脳である。神経生理学としては「反応選択性のドグマ」に則って研究する以外に方法は無い。そもそも脳内のニューロンの興奮パターンそのものを追求するからである。それに意味が無いと考えていては研究にならない。客観的存在としての脳を認識するには脳の物理的存在と脳の機能を結びつけるしか方法が無いからである。その結びつきこそが「意味」である。脳の内部で何が起きていようとも、それが外部と相互作用しない限り何の「意味」もないと考える。しかし、この点こそが茂木氏と異なるところである。何故なら茂木氏は脳の内部で閉じている現象として、つまり本人にしか感じられない現象として「意味」を捉えているからである。これこそが彼の言う「クオリア」である。脳の中で閉じている現象としては確かに脳内のあらゆる場所での相互に繋がりあったニューロンの発火パターンしかない訳なので、その世界内でマッハの原理を適用しようとすれば、茂木氏のいうことも理解は出来る。しかし、脳内の現象がそれ自身で閉じている訳ではないというのも自明な話ではないだろうか?なぜ「意味」の根拠をあえて脳内に閉じ込めなくてはならないのだろうか?茂木氏はある日突然訪れたクオリア体験を述べるのみである。茂木氏の感じたクオリアは誰にでも感じられるのであろうか?副題にもなっている「心が脳を感じるとき」というのは、この何とも表現できないけれども確かにある、という感じのことであって、現代人の予備知識の中では、何かわからないけれども脳の活動を感じている、としか表現できないということである。確かに言語で表現できない意味というものは豊富に感じられるが、それと言語で表現できる意味との間に本質的な差異があるのだろうか?そもそも本人にしか判らなくて同定したり分類したりできないものをどうやって研究するつもりなのだろうか?何らかの形で表現せざるを得ないし、その時点で外界との相互作用に晒されることになるし、それこそが「意味」なのではないだろうか?

(12月22日)
    茂木健一郎の「クオリア入門」は、その後おかしな論理が山ほどあってうんざりしていたが、ギブソンの環境心理学との関係で志向性の重要性(彼の<発見>としてはクオリアを意識させる<ポインタ>であるが)が強調され始めてからまともになった。「明示的視覚表現や両眼視野闘争におけるポインタ表現のダイナミックな変化には、まさに行為と同じような<私>を起点とする能動性が現れている。両者の違いは、能動的なプロセスの最終的な結果にある。行為の場合は、最終的には筋肉などの効果器を通して具体的、物理的な運動という<結果>が生じる。一方、ポインタの場合は、その変化とともに明示的な視覚表現や視覚的アウェアネスの中の<見え>が変化することが<結果>なのである。」補足するならば、志向性というのは謂わば行動の一種であって、動物であることの本質的な要素である。ゾウリムシだって、アメーバだって運動するが、それは背後に個体としての意志があってのことではない。まず運動というものが最初にあって、それを調整するための環境との相互作用があるだけである。人の意志と見えるものもそのような性質のものである。「ギブソンの言うように、私たちの持つ感覚の意味を機能主義的にとらえようとすれば、脳だけを記述しているのでは不十分で、環境との相互作用を明示的に記述の中に入れなければならないだろう。」とまで言いながら、「しかし、私たちと環境の間の相互作用の物理的プロセスが、私たちの心の中に直接表象されることはないことも、また確かである。」という。そうだろうか?直接表象されていることは、既に鳥たちがさまざまな相対的速度や位置にも関わらず「衝突までの時間」を計算し、それに脳内の特定の神経が興奮する、ということで証明されているのではないだろうか?最後の方では「私たちの脳の中の真にユニークなプロセスは、クオリアを重生起させるプロセスではなく、志向性を重生起させるプロセスかもしれないのである。」といっている。その通りである。結局クオリアというのは感覚に由来する脳の活動そのものということらしい。それをそうと認めた段階で志向性に絡めとられてしまうわけで、その範囲内でしか意識にのぼらない。

結局のところ、彼の言っていることは脳の活動の階層性ということに過ぎないのではないだろうか?

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