2023.01.10
本屋で別の本を探していたのだが見つからず、大嶋義実という名前に憶えがあったので、『演奏家が語る音楽の哲学』(講談社選書メチエ)を買ってしまった。帰って調べてみると、京都芸大の先生で、僕は彼の演奏会を聴いたことがあったのである。以下、目についた言葉を要約しておいた。

・・・出だしがなかなか良い。笛類は人間の息が振動体を介さずに直接音になる唯一の楽器である。まあ、振動体は空気であると言えば元も子もない話ではあるが、大昔にはそんなことは判らなかった。何らかの窪みに息を吹きかければ音が鳴るのだから、あの世からやってきた使者に会うように感じても不思議ではない。そういうことで、笛類は世界中であの世とこの世とを結び付ける楽器として使われてきた。ヨーロッパの音楽界では18世紀位まで、笛類は主役を務めていたのだが、平均律の普及によってあまり使われなくなった。容易になった転調を駆使して物語を論理的に構成するような音楽が主流となった代わりに、各調性の持つ独特の色合いが使えなくなってしまい、各種楽器の音色が駆使されるようになり、フルートは他の管楽器や弦楽器と共に、音色の選択肢の一つになり下がったのである。そんなフルートを再び主役に戻したのがドビュッシーであった。音程が不安定で演奏者の一番嫌がるC#音を使って、神話の世界を象徴させたのである。

・・・音楽の起源は複合的である。言葉(語り)の定型化は身体リズムや楽器音無しにはあり得なかったのだし、楽器音には単なる言葉の世界を超越した自然や超自然界を想起させるものがある。フルートの神様モイーズは「オペラ歌手のように喉を開いて下腹でフルートで歌いなさい」というのだが、歌うだけがフルートの仕事ではない。むしろ起源としてのフルートは歌う楽器ではなく風音の楽器であった。

・・・日本で墓所が日常生活の場から分離されたのは縄文時代後期らしい(中沢新一の説)。その場を守り、埋葬の補助ををし、場合によっては死者の霊を蘇らせる職業が生まれた。この墓守こそが芸能者の起源だという。その子孫たちは技術を磨いて村々を渡り歩く「河原者」となり、特定の日(祭りや葬儀)などで呼ばれるようになる。

・・・生まれたての赤ん坊に自分への呼びかけは区別できない。しかし、やがてそれが自分への呼び掛けであることを感じ取って応えるようになる。それが「存在」の始まりである。「存在」は呼びかけの後に来る。音楽家は音楽からの呼び掛けに気づかねばならない。そうでなければ音楽家にはなれない。

・・・楽器音の響きは演奏者が楽器に贈り物をした返礼である。贈り物の価値は楽器が決める。

・・・19世紀はヨーロッパが旧体制から国家中心の体制へと変貌した時代であった。新しい統一国家は音楽を自らのアイデンティティを主張する為に利用した。例えばザクセンの音楽家だったバッハはドイツを代表する音楽家へと変貌させられた。ワーグナーに至っては自らをドイツ精神の旗手として位置付けていた。次々と独立した小国家も自らの国を代表する音楽家を立てるようになる。これが後に国民学派と呼ばれる。中でもチェコはずっと昔から優れた音楽家を輩出してきたのだが、弱小国であったために、多くの音楽家が他所の国で仕事をしていた。しかし、当時彼らがいかに名声を博していようとも、後世に名を残すことはなかった。その国を代表する音楽家はその国の生まれでなくてはならなかったから、彼らの楽曲は国民に愛されなかったからである。

・・・民族の定義とは、「内なる痛みを共有できる範囲を最大限に広げたひとびとの集団」である。チェコは宗教改革者フスの国である。彼が1915年に異端として火刑の処され、以来ボヘミアはハプスブルグ家による弾圧を受け続けた。

・・・五線譜とオーケストラは近代合理主義を体現している。全ての楽器がその由来となる音楽性をある程度犠牲にして協調せざるを得なかった。「ひとがその故郷を追われ、他者として生き、承認を渇望し彷徨う」現代社会を写し取ったようなオーケストラが存在する意味は、全ての他者が調和を希求することの表現である。

・・・赤ん坊が言葉を覚えるのは言葉が自分に向けられた言葉であると感じるからである。私たちは絶えず世界からの問いかけに囲まれているのだが、問いかけが自分に宛てられたものと思わなければ、それは無きに等しい。母親が赤ん坊に掛ける言葉の意味は一つである。つまり「あなたが居てわたしはうれしい」。楽譜も同じである。「私も、あなたが居てうれしい」と答えなければ、楽譜の解釈は始まらない。

・・・停滞することを赦さない時代の空気は、弛緩することが罪であるかのようにひとびとを駆り立てる。絶え間ない競争を要求する社会は、疎外されることの悲しみをひとびとに味わわせる。その哀しみこそは、解き放たれることを許されず(弦を張る)20トンの緊張に耐え、(選択されなかった弦の)静寂を奏でるピアノの姿だ。だからピアノの奏でる「沈黙の音色」にひとは魅せられる。それは己が姿でもあるのだから。

・・・ことばで何かを語ることは、おそらくそのことばでは語りえない何かを伝えるためだ。それは作者自身にさえむけられたものだ。どうしてそんなややこしいコミュニケーション能力を人間は手に入れようとしたのだろう。それは語りえないことを語ることだけが、世界を単純化する暴力から逃れる方法だからだ。ましてや「音」を扱う音楽は無限の開放性と奥深さに満ちている。「たましい」という定義を受け付けないものこそ音楽が動かすものである。

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