2018.08.28
 録画を観た。『ノモンハン−責任無き戦い』

・・・ソ連・モンゴルと満州国との国境紛争であった。装備・戦力で日本は圧倒的に劣っていた。映像はソ連で撮影されていた。負けた日本陸軍幹部への聞き取りがアメリカに残されていた。44名からの聞き取りが日本にも残されていた。誰もが一番の責任と目したのが関東軍の一参謀の辻正信少佐の立てた方針である。国境処理要綱:国境線は現場で決める。何とも非常識な方針が関東軍将校達を説得してしまった。天皇と参謀本部はソ連との紛争を望まなかったが、コントロールできなかった。本来は天皇の裁可が必要な筈の越境爆撃を行った。天皇は怒って関東軍上田大将の更迭を示唆したが、参謀本部稲田は発端となった辻を更迭して済まそうとした。しかし、人事担当の陸軍大臣板垣は昔優秀だった部下であったという縁故により辻を可愛がっていたので、天皇の意向は結局無視された。

      ソ連は大量の武器弾薬食糧を運びこんで準備していたが、日本軍はそれを過小評価していた。ソ連駐在武官土居明夫は実際にシベリア鉄道で大量に戦車が輸送されるのを目撃していたから、関東軍に報告したが、辻は「そんな情報は軍の結束を乱す」として土居を強迫した。それでも土居は参謀本部まで注進した。しかし、ドイツと対峙しているソ連が来るはずはないとして、無視された。(実際にはソ連とドイツは不可侵条約を締結しようとしていた。)

      結果は8割の兵を失って撤退して大敗。(もっとも死傷者数は双方同程度だったから、ソ連軍も装備と人員の割には下手な戦い方だったと思われる。講和条件も国境維持だけであった。スターリンはこれで東方侵攻を諦めたと言われる。)その後がまた問題である。敗戦の責任が戦場から軽損害で撤退した井置宗一中佐に押し付けられた。辻少佐は負けていなかったと主張して井置を非難。小松原道太郎中将師団長は井置きが撤退命令の前に撤退した為に大敗したと証言した。軍法会議にかけることなく、自決を促し、ついに自決させた。辻は更迭されたが、直ぐに参謀本部に返り咲いた。ソ連側から返された約200人の捕虜も自決を迫られていた。陸軍大臣からの通知て、捕虜を敵前逃亡の疑いで調査せよ、というのが出た。以後捕虜への厳しい扱いが「生きて虜囚の辱めを受けず」と明文化された。

      2年後から始まった太平洋戦争は、ノモンハン事件のパターンが何度も何度も繰り返された戦争であった。自らを英雄に見立てて暴走する部下とそれを押さえられず、責任も取らない上司、という構図は今日でも大半の日本企業で見られる風習ではないか?

 
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