2015.08.14

      この間借りてきた「むすんでひらいて考」海老沢敏(岩波書店)をパラパラと読んだ。

「むすんでひらいて」は、ジャン・ジャック・ルソーの「村の占い師」というオペラ(1753年初演)の幕間のパントマイムのための曲にその原型があるということである。それは当時評判が良くて、その曲からいくつもの恋歌が作られて流行したし、イギリスではオペラ自身も英訳されて上演された。それらを参考にして、ヨハン・バプティスト・クラマーという作曲家・ピアニストが変奏曲に仕上げたものが「ルソーの夢」(1812年)と題されて、流行したのである。ここから、この「むすんでひらいて」のメロディーは、器楽曲として、恋歌として、あるいは賛美歌として使われ、アメリカに渡って、賛美歌、民謡、子守唄、子供の遊び歌として使われた。東アジアに最初に来たのは中国で、これは賛美歌であった。日本が開国する前に中国(清朝)は米国に開国し、その条件がそれまでの列強に比べて友好的であった。

日本にも賛美歌として伝わったのが最初である。しかし、文部省はこのメロディーに古今和歌集からの歌詞をつけて、「みわたせば」という題の優美な小学唱歌を作った。他方、民間では文部省に無視されていた幼児教育が私設の幼稚園として実施され、その中で幼児の遊び歌として「むすんでひらいて」が作られていた。それらと平行して、日清戦争・日露戦争という情勢の中で軍歌としてもこのメロディーが使われ、蒋介石の中国でも軍歌となった。戦前ではむしろ軍歌が目立っていて、やがて日本では賛美歌集から削除されてしまう。敗戦後、唱歌として編集されたとき、唯一残されたのが民間伝承されていた「むすんでひらいて」の歌詞であった。

・・・海老沢敏は最後に、このメロディーが2世紀以上に亘って、アフリカも含めて世界中に流布した理由を考察している。ルソーの最初のメロディーは<ミー・ファ・レ・ドー・ドー>と始まるが、クラマーはこれを<ミー・ミ・レ・ドー・ドー>と変えている。これによって、やや芸術的、個性的な舞曲から民衆的、民謡的な歌への性格の変貌が起きた。どんな歌詞にも順応し、一度聴いたら忘れることが出来ないような性格を持つに至った。アメリカ、日本では、その性格が幼児の歌、つまり音と身体運動(仕草)との有機的な関連性に結びついたのである。

・・・ここでルソーの音楽観と関係づけられる。オペラの中で花形というとアリアであり、それは物語の一回性的な情緒表現を担っている。優れた歌唱技術の歌手によって歌われて、観客に強烈な印象を与える。それは歌詞と旋律が分かちがたく結びついている。ルソーはこれを模倣的音楽と名づけ、それと対比したのは自然的という表現ではあるが、和声を中心とした楽音の客観性に依拠する音楽である。ルソーは田園生活での民謡に惹かれていて、人々が集まって歌う自然な和声については賛美しているものの、歌や音楽にいたずらに奇矯な和声を加えることで、「芸術音楽」を作り、元々はどんな音にもあるはずの和声を損なってしまうことを批判している。

・・・ルソーは幼時に聞かされた伯母さんの歌を思い出し、音楽を<記憶の符号>と名づけている。その人だけが持つ思い出を意味する「記号」である。「むすんでひらいて」は正にこのルソーの音楽観に沿ったメロディーというべきであろう。それだけではない。ルソーの理想的な音楽(模倣的音楽)、つまり音節のある声(話す声)と旋律のある声(歌う声)とアクセントのある声(情緒的な声)を自在に組み合わせた歌、を歌う程までにはまだ発達していない子供のための音楽である。ルソーが教育論の古典「エミール」の中で語る子供に必要な歌「旋律はいつも単純で歌いやすいもので、いつもその調子の基本的な和音から出ていて、いつも低音をはっきり示し、子供が苦も無く聞き取り伴奏できるもの」の条件を満たしている。子供はこの歌に合わせて手足を動かし、動かす内にその動きに合わせて歌詞を変えていく。「身体運動が言語を生み出す。」その補助としてのメロディーになっている。

(追記)2世紀に亙って世界を遍歴した『むすんでひらいて』については、『むすんでひらいての謎』という CD が作られている(2003年キングレコード)。

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