2018.07.19
昨日と今日は日本一という暑さの中、祇園祭を避けながら、所用で京都に行って来た。会合で「どうして中島みゆきが好きなの?」と訊かれて頭が纏まらなかったので、改めて整理してみた。

・・・中島みゆきにはいろんな受け取り方がある。ストレートには重い閉塞感を持っている人に対して、胸にグサリと突き刺さり、それがある種の納得感となって癒される、というタイプがある。比較的若い人に多い。筑紫哲也もそうだったと告白している。もう一つのタイプとしては、逆に彼女の喋りの爽快さとかオチとかを上質のギャクとして楽しむケースも若い人に多い。これは彼女にとっては「照れ隠し」に近い演技だろうと思うが、もはや身体に染みついている。面と向かった他人とはそういう風にちょっとふざけてずらした感じでしか対応できないのであるが、ネットで一生懸命検索すると、たまにボソッと本音をひとくさり、という録音が見つかる。

・・・僕の場合はいずれでもなくて、彼女の見せる自己の多重性に惹かれる。本来的には自分の言葉に自信が持てず、誤解されることを恐れている。会話もスムーズには行かないし、社交も苦手である。テレビ番組に出ないのもそのためである。だからふざけるのだが、その代償として、詩作によってうまく自分の思いを凝集させることはできるし、歌うこともできる。それが幼い時からの習慣だった。むしろ歌うことに没頭し、気持ちに成りきるあまりに言葉を忘れる程である。その辺が巫女のようだと言われる所以であり、それは僕にとっては、好きとか嫌いとかではなく、聴いている内に強引に引きずり込まれてしまうという感じに近い。だから、彼女の歌はしばらく言葉を反芻したり、何回も聴いていく内に意味の深さが判ってくる、というところがある。

・・・その本質を一言で言えば、「母性」だろうと思うのだが、皮肉な事に、他方で、彼女の持つ過度の反省気質や知性が男を遠ざけてしまったので、自分の本当の子供を持てなかった。男はある程度頼りない女を求めるものだし、こういう女はちょっと怖いのである。彼女の失恋の歌の多くはそういう内容になっているので、一般的にはやや奇異で判りにくく感じるだろうと思うのだが、ヒットしている処を見ると、案外そういう経験をする女性は多いのかもしれない。ともあれ、彼女の面白い処は、というか創作の秘密は、その母性的なるものを表現するための手続きというか演劇的構成である。つまりそれを一つの物語として提示し、その中に登場する男女・正負・善悪もろもろの人物を自分1人で演じるのである。「夜会」においては、それを何人かの歌手に割り振るようになってきたのだが、全て自分で曲を書いているから、自分が歌う事を基本としている。彼女は自分が母性として包み込む「子供たち」を自分で演じるためにその当人に成り代わって歌い、最後には彼等を救いたいと願う気持ちまで歌う。実際「私の子供になりなさい」という歌も作っている。彼女が時々反体制的に見えるのは、国家が救えないその「子供たち」にまずはなりきろうとしているからである。

・・・具体的にどんな人々(子供たち)を対象とするかについては、彼女の人生経験が反映されている。父親の仕事が産婦人科だったから、損な役回りばかりをさせられる女達がまずその対象としてあり、大学時代の経験からは、組織に裏切られた学生活動家達があり、東京での生活からは、地方から上京してきた人や生きるために海外からやってきた人や周辺のスタッフがあり、他には、主題歌を依頼されたドラマや番組の内容であったり、ニュースであったりする。

・・・僕は彼女の歌に救われたいとは思わないし、慰められたいとも思わない。しかし、彼女のその思いの深さと宿命に感動し、且つ、やや愛おしく思うのである。こういう「見守ってあげたい」という受け取り方は年輩のファンに多いと思う。

 
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