2024.09.08
中島みゆき展で見つけた本を3冊図書館で借りてきて読んだ。細野晴臣、吉本隆明、筑紫哲也各氏との対談である。
●『音楽少年漂流記』細野晴臣(新潮文庫、1987年)
細野晴臣がちょっと行き詰まりを感じていた頃の、元気のよい女性達(多くは音楽家)との対談集。彼の考案した心理実験「森のイメージテスト」で対談者の心理状態を分析して遊んでいる。元々はオノ・ヨーコとの対談もあったのだが、ちょうどジョン・レノンの死で掲載ができなかったらしい。中島みゆきとの対談は大したこともない。すっかり「音楽少年」である細野から見ると、中島みゆきは音楽家というよりも詩人に見える。「あなたは音楽家のつもりなの?」と質問している。「音楽的にお粗末ということは自覚している」との答え。細野はあまり音楽で使われる言葉を気にしていない。だから、「(中島みゆきの歌は)明るいとか暗いとかいうことは気にしていない、ただ、よく練られていて鋭い感じがする」という。だから、細野が中島みゆき作品に初めて「音楽」を感じたのは『悪女』だったという。対談内容としては、自分自身と公的に作られていくイメージとのギャップとどう向き合うか、といったことが中心だった。中島としては、「自分にはどうにもならない問題なのであまり気にしない」ということらしい。ところで、序文で当時の細野の感じていたことが書いている。YMO が世界に打って出たころ、日本は最も自信に溢れたころだったから、YMO も日本の元気よさの象徴として扱われていたし、音楽というよりもコンピュータを使いこなすという格好良さが受けていた。当人達にとっては心外だったらしい。それが重荷になって、解散したということである。解散して個人になれば、YMO のイメージは消えてしまうから。(当時の僕にとってYMOは単に「音楽とは思えない」という感じだった。耳が古かったのだろう。いまだによく判らない。でも細野の演奏には心に響くものがある。)
対談で、他には、笙を世界に広めた宮田まゆみが面白かった。ひたすら音(和音)に浸りきる姿勢。雅楽という枠組みも音楽という枠組みも越えて、純粋に陶酔できる音響の追求。ネットで調べると現在70歳で、現役で活躍している。●『余裕のない日本を考える』吉本隆明(コスモの本、1995年)
これは、いろんな雑誌に書いたものを集めた本で、その中に中島みゆきとの対談「<感覚>から<心>に入る歌」(1991年)が含まれている。文学者同士の対談だけになかなか深いところまで入り込んでいる。
吉本隆明もファンである。中島みゆきについては
吉本「演歌の散文化、自由詩化をやった人ではないか」という。昔から引き継がれてきた伝統と繋がっているのだが、その繋がり方は「態度」の側面である。歌はモダンなのだが、昔の放浪の「女三味線弾き」という趣がある。「最近のコンサートではバックバンドがちょっと煩すぎる」という。これに対しては、
中島「恨み節的なイメージが出来てしまって、逆にそれを乗り越えようとしてきて、一緒に仕事をしてくれる人を探し続けて、いろいろな試みをやってきた。一時期自分の声よりも楽器の音を前に出してみて、それでも歌詞を聴いてくれる人を選別したいとも思った。音楽は孤高ではなく、コミュニケーションであるから、駆け引きの側面がある。現在は、自分のやりたいことをやっていて、理解されなくても自分さえしっかりしていればよいと思っている。」
中島「演歌が馬鹿にされるのは、演歌の持つパターンが目立つためであるが、本当の価値はそのパターンを取り去った後に残っているものである。そういう意味でいくつかの作品やシンガーにはそれがある。西洋音楽だって、パターンに嵌って満足している人は多い。」に対して、
吉本「水戸黄門のドラマだって、定型詩だって、パターンを持つ強さがある。だから中島みゆきは演歌のパターンを自由化したのだが、それが演歌を西洋音楽のパターンで、という話だと面白くない」という。
中島「自分のパターンがどうなるかは判らないけれども、技術よりは生命力を訴えたい、それが声でなくてバックバンドだって構わない、聴く人が生きていくうえで役に立てばよい」と答えた。
吉本「ユーミンの場合は彼女の感覚から聴き手の感覚に伝わるというものだから、時代の感覚がずれていったときどうなるのか?しかし中島みゆきの場合は、感覚から聴き手の心に入っていく。演歌はそのパターンで即座に聴き手の心に入る。」(「感覚」という言葉の意味がやや特殊であるが、言いたいことは判るような気がする。中島みゆきの歌は二重構造をしていて、表向きの面白さ(感覚)の背後に人生観にまで影響を与えるようなものがあって、それは直ぐには判らない。判るまでに何年もかかることがある。)
吉本「伝統的な演歌の場合は歌詞が重要であることは確かなのだが、メロディ自身も意味を持っていて、歌詞とメロディーで訴えてくる。中島みゆきの場合は、言葉を明瞭に伝える為にメロディーが付けられている。(「メロディー」=「パターン」と置き換えればよい。)」
中島「必ずしも歌詞が先にあるわけでもない。というか、何度も行ったり来たりして推敲するので、何とも言えないが、時には即興的に歌詞を変えたく思う時もある。」
作詞は谷川俊太郎の影響が大きい。他にはねじめ正一や辻仁成。曲の方はアンドリュー・ロイド・ウェーバー。言葉とメロディーを合わせようとしている人の仕事が面白い。(吉本は谷川俊太郎と田村隆一と吉増剛造。)「音楽は楽しくさえあればよいのに、どうして聴きたくもないことをいちいち歌詞にするのか?」と問われることが多い。
中島の答えは「どこかでつらい目に合うようなことがあったとき、わたしの歌を思い出してもらって、それはたかが歌に出来る程度のことじゃないか、と思って気分を楽にしてもらえればそれでよい。」
●『筑紫対論 II』筑紫哲也(朝日ソノラマ、1995年)の中の、「言霊を追う女神」。全体にリラックスしている感じ。
・・ディスクジョッキーと歌のどちらが本当か?については、どちらも本当だけれども、どちらも瞬間芸で日常的ではない。日常的な自分はもっとだらっとしていて怠け者。(ディスクジョッキーは即興的に聞こえるけれども、かなり事前の準備をしている。)
・・歌の中に暗いものが多いと言われるが、「暗い部分も正直に表現した上でそれを越える方法を探したい」と。
・・男だからとか女だからというのではなくて、人間だからという処に目を向けられるようでありたい、という意味で「凛々しい女になりたい」と言う。
・・書くときは何となく直観で書いていて、推敲している内に実感が湧いてくる。けれども、それが聴く人にとっては心に刺さる、というのはよく判らない。そんなことを意図しているのではないから。ただ、自分の言葉をいろいろな意味で受け取られるのは面白い。
・・言葉が好きで、言葉にイントネーションを付けている内に曲になる。言葉の意味は人によって変わるし、時代によって変わるから、「言葉をどういうつもりで言おうとしたか、あるいはどういうつもりで聞こうとしたか」という、そういう意識に出会うとき「言霊」が生まれる。歌は歌う人にとって思いもかけない聴き方をされるけれども、自分の歌は単に実用品の一つであればよい。気晴らしになったり、元気になったりすればよい。
・・自分は時代の流れに対して反応が遅いので、その底に流れるものを捉まえるしかない。だから、ニュース番組のテーマ曲『最後の女神』を作るにあたって、ニュースというのは「願い」とか「人間の心の熱」みたいなものから生まれてくるんだ、ということを考えてみた。
・・事件やニュースを見て何か書くとすれば、その何かを見ている自分をもう一度見てでないと書けない。(自分は現象を反映する鏡ではなくて、あくまでも現象に関わる主体であって、その主体が同時に表現されないと、何かを書くということに対して責任が持てない、という意味だろう。)
・・ポプコンの頃は歌が下手だったし、発声も自己流だったので、先生について身体作りからやり直した。
・・『わかれうた』がヒットして、自分の世間的な枠組みができてしまって、それはそれでやりやすいけれども、それを裏切るべきかどうかでしばらく悩んだ。ディスクジョッキーで冒険してみて、何でも出していいんだと割り切れるようになってきた。(確かFM大阪の番組の中だったか、「いろんな傾向の歌があって戸惑うかもしれないけれども、どれも自分だし、そもそも人を何者だと限定して捉えるというのは危険なことだ」と言っていた。わざと七変化をして目くらましをしているようにも見える。)
・・「夜会」はストーリーを書いて、それに合った歌を探してきたり、無ければ作る。それによって歌は初出の時とは別の意味を帯びてくる。そういう意味で言葉の実験でもある。
●3冊読んでの僕の感想
中島みゆき教というのがあるとすれば、ご本人が教祖ということになるが、勿論本人にはそのような意識は無い。普通は教祖を奉って教団を運営していく指導者が居るのであるが、それはまあヤマハが教団で、瀬尾一三が指導者ということになるのかもしれない。ただ、さすがにヤマハには宗教団体という意識は無い。勿論税金も払っている。まあいろいろとファンが騒いでいるだけであって、本人は情報音痴で何も知らない。知っていてもあまり興味もないだろう。あるいは敢えて黙っている。
要するにさんざんに語られている彼女の思想性というのも、彼女にとってはごく当たり前の説明不要の自然な感情なのである。やはり、家庭環境がもともと倫理性の高いものだったということは推察できるだろう。それが彼女の作詞才能(暗喩)と歌唱才能(強さ)によって素直に表現されていて僕らの心に迫る、ということである。
音楽的背景としてはビートルズ等に始まるロックや反戦フォーク、ブルース等だろう。そんなに特異なものではないし、音楽的にはもっと優れたシンガーソングライターが沢山居る。中島みゆきを語るとすれば、結局は詩なのである。僕たちがいつの間にか忘れていたりはしないけど、どうでもよくなったと思っていたり、こんな正論をいくら語ってみても仕方ないと諦めていたりしたことを、思いもかけない暗喩を使って言ってくれる。それは、あまりにも当たり前で当然のことなのだけれども、日常的な意識からはすっぽりと抜け落ちていて、そのために、ついついおかしな選択をしたり、致命的な過ちをおかしてしまう、そういう、まあ倫理観みたいなものを、彼女の歌は蘇らせる、まあ、そういうことなのだろう。例えて言えば、何も知らないと思っていた子供が、思いもかけず正論を言って、大人たちがふと我に返る、そういう経験。やはり、何となく伝説の中のイエスに似ている。。。
しかし、最後に付け加えて言えば、この「倫理観」という言い方は正確ではない。そういう要素が含まれていて、知識人達が語りたがるのもその要素なのだが、全体としては彼女の自然な感情が表現されているのであって、その中には「倫理観」だけでなく、彼女の特異的な恋愛観とか、コンプレックスとか、動物愛とか、とりわけ引っ込み思案な性格とかが、入り混じっているから、そういうのも含めて味わい、受け止めることができれば、多分中島みゆきも喜ぶのではないだろうか?その辺が宗教とは違う処である。