2008.05.18
      先週和歌山への出張の時に、アンドリュー・パーカー「眼の誕生」(草思社)を読み終えている。54300万年前に突如として動物、特に甲殻類の形態が多様化した。カンブリア紀である。なぜ突然なのか?というのが主題である。それまでを前カンブリア紀と呼んでいて、実は体内の体制自身の進化は粛々と進化してきていたという。カンブリア紀で分類学上突然多くの動物系統が生まれた訳ではない。ただ、それまでは眼がなかった、というだけの話なのである。おそらく最初に眼を持ったのは三葉虫だったということである。動物は他の動物や植物などから栄養を摂取する。他の動物からと言っても、その狩の手段は近傍をたまたま通りかかった動物を捕獲するメカニズムがあっただけである。狙われた方にしてもさしたる防御機構が進化した訳ではない。ところが眼を進化させた三葉虫は積極的に遠くの環境にある獲物を捜索し、近づき捕獲することが出来るようになった。この視覚の有効利用とそれに対する防御というものが、カンブリア紀の爆発的な進化、動物の形態上の進化、を齎した。体内組織の進化に比べて形態の進化はそれほど多くの遺伝子の改変を要しない。手近にある形態を発生の過程でちょっと誘導するだけで形態を変えることが出来る。食う食われるの連鎖の急変は数千年の間である程度の均衡に達して、そこからは元の緩やかな進化に戻ったのである。

      主題はこのように比較的明確であるが、話の持って行き方は結構手が込んでいて、ちょっと鬱陶しい感じすらする。視覚というものが現在の動物にとって如何に重要なものであるか、ということが繰り返し語られる。光はあらゆるところに遍在しており、その有り方によって環境をニッチに利用できるものとしていて、動物はそれに適応して種の多様性が生まれている。他の感覚とは明らかに質の違う環境因子なのである。食う食われるから比較的自由な鳥類においては、繁殖相手を見つける手続きに光(視覚)を利用する傾向が強い。カンブリア紀の動物達もさまざまな手段で自らの見え方を工夫していた。特に干渉色の利用は化石からでも充分に推定可能であり、おそらくカンブリア紀の海の中は干渉色で光り輝いていた。いろいろな見え方の工夫の例を読むと、人間が装飾に夢中になるのも動物本能として当然なんだなあ、と納得させられる。確かに、未開人達の身体装飾はいつも極端であって、いつも不思議に思っていたが。意識的にこの装飾はこういう意味なんだと納得する、というのではなくて、もう見た瞬間にこういった装飾はある具体的な意味として意識に直接与えられるのであろう。まさに、「人は見かけなのだ」。もう一つ驚いたのは眼の構造である。屈折率分布とか、反射型とか、近代以降人間が考案した視覚装置は既に動物が実用化したものばかりであった。複眼にしても単眼の集まりから、複眼から一つの像を作るやり方から、さまざまな原理が使われている。僕にとっては初めて見る原理もある。まさしく「必要は発明の母」である。

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