竹田青嗣・山竹伸二「フロイト思想を読む」(NHKブックス)は現象学者によるなかなか判りやすいフロイト解説書である。現象学というのはヨーロッパの哲学の伝統である意識主義の到達した地点という意味で、まあ最右翼というべきものであろう。物質界と精神界をあくまでも理性の立場で解明していく。そのため検証手段は「意識に直接与えられたもの」である。

    人間の心の本質を「無意識」と見たフロイトを現象学者が解説するにはそれなりのトリックが必要である。現象学の立場からは「無意識」もまた意識に直接あたえられたものでなくてはならない。本当の無意識は認識不可能であり、あるかどうかさえ定かでない。しかし、人は自らの行動が意図しなかったものであったときに、あれは無意識の自分の意志であったと、事後に「自己了解」するのである。そういう形で無意識は意識に直接与えられる。そのような自己了解が一般的になったのは、フロイト以降なのである。それまではどうであったか?

    中世において無意識の行動は神か悪魔の仕業であった。そもそも、自己の運命を選択して生きるということすら庶民には一般的ではなかったから、自己が分裂しているなどという意識は生じる隙もない。社会的に束縛された自己とそれを突き抜ける欲望とが葛藤し始めたのは近代の特徴である。中流階級の女性においてそれが顕著に現れ、さまざまなヒステリー症状が医学的な問題となり、催眠術による治療が行われる時代になって、フロイトは「無意識」というもう一つの自己を想定せざるを得なかったということである。初期には、無意識とは性欲のことであり、意識とは社会規範であった。しかし治療経験が進むにつれて、無意識の中に身体的なエロスと社会的に形成された自我の葛藤を認め、それに振り回される意識的な自我という構図が描かれた。無意識として想定された幼少期のエディプスコンプレックスは残念ながら科学的には実証されなかった。フロイトの性欲論に反発した弟子達のさまざまな無意識の実体論も同様であった。精神分析が科学として認められないのは当然であった。

    しかし、そんなことはどうでもよいのだ、と現象学者である著者は言う。無意識を自己了解するための「物語=他者からの承認」が必要なだけなのである。群社会のシャーマニズムも精神分析も効果としては同じである。シャーマンは、その患者に言い表されず、また他に言い表しようのない諸状態が、それによって言い表されることができるような「言葉」を与えるのである。それは患者の所属する社会が共有している象徴秩序の構造によって意味が与えられ、患者は「原因」を納得し、それが取り除かれたことを確信する。心が身体に影響を及ぼすのは生理学的現実なのである。

    人は社会的動物であることを運命付けられていて、それから逃れることは出来ない。自己を社会に適応させるために、母親、父親、友達、、、と輪を拡げてそれら他者の気にいるように自らの規範を築き上げていく。その過程の中で、やがて自己を意識する存在となるわけであるが、その時に意識される自己は築き上げてきた規範が玉葱の皮のように折り重なった存在である。それらを丁寧に解きほぐしていくことは物理的生理的には不可能である。本人が辻褄のあうような「物語」を作って納得するしかない。さもなくば「不安」に襲われるであろう。心は物の因果関係として捉えることは出来ず、むしろ「意味=こと」の連関として捉えられねばならない。心の本質はつねに自他を対象化しつつ自己の「存在可能」を見出しているような存在であり、刺激と反応の複雑な実体的メカニズムではない。無意識は実証されない。にも拘らず無意識は存在するし、その意味を取り出すことが出来る。無意識という領域を一つの実体としてではなく、一つの総体的な経験領域と考えるなら、それがもつ象徴的な構造の本質として意味を取り出すことが出来る、というのが現象学の立場である。

    人間の欲望、情動、感受性の体制、つまり人間の「欲望=身体」のエロス体制は、動物的身体における生理的な快苦と欲求の体制とは異なる「幻想的」本質を持つ。それは、対他関係の中で、そして時間的なプロセスの中で文化的に形成される。ラカンは欲望の本質を要約する。人間の欲望は本質的にフェティッシュなもの、つまり欲望の対象はその背後に隠されつつ誘うものを持つという構造を持つ。動物の発情のように一義的な身体的刺激によって喚起されるのではなく、対象に何かが隠されているという幻想が必要である。女性の身体が男性を誘惑するのではない。女性の美しさという幻想が男性を誘惑するのである。ラカンの弁に拠ればそれは主体におけるある根源的欠如であるが、そこまで遡る必要は無い。人間の欲望は、他者から承認されること、という「承認のエロス」を軸として発展し、身体的に体制化され、快苦だけでなく、善悪、美醜、真偽、聖俗、という価値が組み込まれていく。身体的に体制化される、というのは、つまり、対象を分析的に受け止めてから快苦、善悪、美醜、真偽、聖俗を感じるのではなく、まず意識に直接やってくるということである。われわれの意識はそれを了解するしかない。その由来を辿ることができない。われわれが「自由」な存在であるのは、まさしくわれわれがそれ以上因果を辿れない「衝動→欲望」を自己の一部として持っており、にも拘らず、それに対して何らかの態度を取ろうとするからである。自らの「衝動→欲望」を必然として外部規定されてしまえば自由ではないが、それを自己了解することによって自由という意識が生じる。それは「非知」でありながら、私に到来する肯定性であるために、私を行為へと駆り立てる。これが自由の本質である。(衝動が否定性であれば、「不安」となり、私を駆り立てない。)「欲望」や「不安」は現に我々を触発し衝迫する。このことでそれらは常に私の新しい「存在可能」を指し示す。しかし「無意識」は常に私の暗黙の自己了解像と事後的にやってくる対象化された自己像とのズレの意識としてしか現われない。つまり、無意識は、私が本質的に他者関係のうちに存在し、この関係の中で自己の実質を作ろうとする存在であるがゆえに、たえず私にとっての「問題」として現われる。他者達のなかで関係する身体であるがゆえに、「自己が何であるか」がつねに問題となり、まさしくそこに自己の無意識に向き合う理由が存在する。そのようなものとして、欲望と無意識はつねに私の自己了解と存在配慮の源泉であり、自由の根拠なのである。

    という次第で、科学が如何に「無意識」に迫ろうとも、それは事後的に説明されるだけであって、「意識に直接与えられるもの」を問題にする限り、現象学者の論理は崩れない。つまり、心の「本質=意味」は科学では観取できないということである。これはまあそうだろう。科学は「意味」に立ち入ることができない。ただその前提条件を整えるだけであるから。科学者は人間であるから、科学的記述の「意味」を観取している、ということは言えるが、心を対象としたとき、自己認知という原理的不可能性の壁がある、ということである。

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