2021.07.07
朝、NHKBS1 の番組表を見て、途中から『満州難民感染都市』を見た。以下メモ。

・・・敗戦後、ソ連の侵攻から逃れて、大量の開拓団農民が着の身着のままで大都市瀋陽に逃げ込んできた。難民は市内各所の収容所に入れられ、悲惨な状況であった。

・・・日本人市民も支援する余裕がなかった。ソ連の支配下にあり、多くの女性が強姦の犠牲となった。居留民会は自衛の為にソ連兵の為のキャバレーが設置され、若い女性が差し出された。幼い子供は中国人に引き取られた。

・・・そういう状況で、難民の間では発疹チフスが蔓延した。満州医科大学が対応したが、医療従事者が次々と感染して命を奪われた。満人に変装して、731部隊の支部へワクチンの種を買い付けに行った。しかし、ワクチンの製造は間に合わなかった。感染者から虱を集めてワクチンを作ろうとしたが、そこでも多くの学生やボランティアが命を落とした。死体は掘り起こされて、ソ連兵の試し切りに使われていた。

・・・市民も難民も困窮状態に陥った。日本の政府は敗戦で外交権を持たず、帰国もできなかった。中国市民に助けられる人も多かった。ワクチンが出来たのは翌年2月で、それ以降発疹チフスが終息に向かった。

・・・しかし、その後、今度はペストが発生した。満州医科大学では中国人の学生も一緒になって対策にあたった。ペスト対策には経験があったので、徹底した防疫で終息させた。

・・・1946年2月にアメリカの査察があり、瀋陽の実態が世界に発信された。ソ連の組織的略奪と感染の蔓延。ソ連による工場設備の略奪は20憶ドルに及んだと言われる。

・・・3月にはソ連が引き上げて、そこを中国の国民党と共産党が争う。日本人の存在は政治的に不安定要因になるので、アメリカは国民党軍を運び込み、その船(100隻)で日本人を日本に送還した。しかし、その矢先、コレラが発生した。コロ島の船着き場で、満州医科大学の学生や看護師はアメリカから供与された DDT で只管難民の消毒活動をした。引き上げ船は感染者が発生すると上陸が出来なくなった。その中に医科大学生だった阿部公房が居て、防疫活動をしていた。

・・・他方、共産党も国民党も日本人技術者には残留を求めた。満州医科大学でも多くの学生や医師が残り、教育を担当した。1947年、共産党が周囲を支配する状況になり、瀋陽は孤立した。急遽アメリカの輸送機で脱出した。その為の資金は中国人の学生達から出されたという。師を重んじる文化である。

・・・体験者や当事者がまだ生きている間に、こういう記録が残されるのは大事なことだなあ、と思った。もうあまり時間も残されていないから。

・・・他方、共産党も国民党も日本人技術者には残留を求めた。満州医科大学でも多くの学生や医師が残り、教育を担当した。1947年、共産党が周囲を支配する状況になり、瀋陽は孤立した。急遽アメリカの輸送機で脱出した。その為の資金は中国人の学生達から出されたという。師を重んじる文化である。

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