2022.07.01
『満月みゆき御殿』(ソニーマガジンズ)
GB(ギターブック)という雑誌に掲載された中島みゆきの記事集である。本のタイトルは中島みゆきが付けたらしい。秀逸である。面白い処だけをメモする。

● 1980年(こすぎじゅんいち担当):
・生い立ちについて、中学2年生くらいまではピアノを習っていた。ただ、徒歩で1時間かけて通っていたので、止めてしまった(家にピアノは無かった)。その代りにギターを独習した。子供の頃から歌を作っていた。高校生の時、自分の生きる意味について悩んで、思い切って文化祭で一人のコンサートをやった。誰も途中で出て行かず、後で褒められたので自信がついた。
・北海道では演奏者達が連れだってコンサートを行うことが難しかったから、設備の整った発表の場としてポプコンを利用した。その前に、フォーク音楽祭に出て、最終審査の時に課題の歌詞として谷川俊太郎の「私の歌うわけ」に出会って、ショックを受けた。

● 1981,2,3年もこすぎじゅんいち担当
・インタビューに相当苦戦している。中島みゆきは答えたくないと黙り込んでしまうし、かといってやたらとふざけて笑う。要するに、いい加減な気持ちで当たってくる者ははぐらかされてしまうのである。恋人に対してはあまりにも完全性を求めてしまう、と自己評価している。

● 1984年 アルバム『予感』論は萩原健太の記事で、なかなか面白い。
・それまでの彼女の楽曲は、まず彼女の歌詞と曲があって、それの起伏に沿ってアレンジがなされている。いわば連携分業である。ギターを中心としたアレンジ、他の楽器が彩りを添えるもの、リズム隊もそれほど独自性を主張しない。適用される音楽様式は初期のフォーク、カントリーブルース的なものから、いわゆるニューミュージック系統のものへと変遷した。しかし、彼女の詞の本質は何も変わっていない。譜割りは独特なものなので、それに特異的なリズムパターンを当てはめようとするとぶち壊しになることがある。(例として「悪女」のアルバムバージョン。)彼女の曲をジャズ風にフェイクして歌うことはできないのである。この『予感』においては、初めて彼女自身が編曲者として名前を出している。そして、明らかに歌が出来てからの編曲ではなくて、編曲のアイデアが先にあって、それに合わせた歌が作られている。

● 1984年 コンサートツアー『明日を撃て!』についての田家秀樹のインタビュー。
・今まではシンガーソングライターというだけでちやほやされてきて、コンサートもその場の雰囲気で適当にやっても良いと思っていた。新しいアルバムを出して、その曲を売り出すためのコンサートツアーであった。しかし、今回のは違っていて、そもそも新しいアルバムが出ていない。今の自分として訴えるものを全面に出したい、ということである。実際未発表曲『青い鳥』もギター弾き語りで歌っている。

● 1984年 アルバム『はじめまして』についての平山雄一のインタビュー。
・花を買っていこうと思ったが、ぴったりしたのが見つからず、カボチャのケーキを買っていく。「やっぱり、断崖絶壁に咲いている花を、汗水たらして持ってきてくれるのがいいね。」「!」エンジニアがアメリカ人だったので、通訳を2人付けて、歌詞の意味をわかってもらうようにした。今までは判らなくても良いや、と思っていたが、最近は受け取られ方を気にするようになった。造語も少なくなった。

● 1985年 コンサートツアー『月光の宴』の記録(平山雄一)。
・前回の内向的な内容とは対照的に、今回のはジャズ、ロック、シャンソンといったバラエティに富んだ編曲。

● 1985年 コンサートツアー『のうさんきゅう』の予想記事(田家秀樹)。
・何しろ、中島みゆきは命を懸けても変わろうとしている。

● 1985年 アルバム『お色なおし』の予想記事(田家秀樹)。
・甲斐バンド、クリスタルキング、センチメンタル・シティ・ロマンス、後藤次利といった、同時期のロックグループに編曲を任せた。

● 1985年 アルバム『お色なおし』のインタビュー(平山雄一)。
・前回の『おかえりなさい』では提供した曲を元のデモテープバージョンで歌ったのだが、今回は逆にできるだけ違うものにしたかったので、編曲を任せた。彼らの中にあるアマチュア性、つまり自分が一番という出しゃばり性が嬉しかった。

● 1985年 コンサートツアー『のうさんきゅう』の記録(平山雄一)。
・『御色なおし』と『はじめまして』からの曲が多い。

● 1985年アルバム『miss M』インタビュー(平山雄一)。
・地声がでかくなっちゃったんですよ、あたし、コンサートやってるうちに。キーも 1音位高くなっちゃって。もっとボリュームがでかくなって 3倍くらい出るようになるとよい。そうするともっと楽に歌える。自分の声は耳障りな声だと思ってんの。だから刺々しくなる。だからもっとやさしく歌いたい。中島みゆきらしさというイメージを払拭したい。

● 1986年 コンサート『歌暦Page'85』記録(平山雄一)。

● 1986年 コンサートツアー『五番目の季節』インタビュー(平山雄一)。
・だいたい私は学生時代から、オンナオンナと呼ばれることは好きじゃなかったね。「女だから甘く見てね」みたいなのって、大嫌いだった。だからそれが反動みたいに出て、自分が女だということを口に出すのは卑怯なような気がしてたの。あの女っぽい歌を歌いながらもね。でも、このところしばらく、やっぱ女は女だから、そこから始めりゃいいんじゃないと思うわけ。そう考えたら、なんか楽になったのね。で、女は女でいいじゃないと思ったら、歌が男っぽくなってきちゃったという・・・変なことに。

● 1986年 シングル『あたいの夏休み』のミュージック・ビデオ(河合美佳)。
・歌詞の言葉を分解して絵で表現した面白いもの。サマーはサンマ、バケーションの「ション」から小便の絵。あたいが鯛。。。日本語構造の面白さを逆手に取っている。

● 1986年 シングル『見返り美人』インタビュー(平山雄一)。
・「自由、自由、ひどい言葉ね!」は新しぶりたがっている自分への警告である。

● 1986年 アルバム『36.5℃』インタビュー(平山雄一)。
・『Miss. M』が暗い中島みゆきという先入見からの脱却であったとすれば、『冷たい別れ』はスタンダード、『見返り美人』は凄みのあるみゆき節であった。このアルバムは甲斐よしひろにプロデュースを頼んだ。中島みゆきに図々しくものの言える人だから。これまでのみゆき節が「ひとり、部屋で別れた男のことを思う」のなら、今回のは堂々と相手の男が出て来て、お互いに自分の言い分を投げ合う。『五番目の季節』の『友情』は皆の反対を押し切ってレゲエスタイルにした。それが始まりだった。自分の恥ずかしい処も見せる。今までの私は甘えていた。実年齢で行きます。

● 1987年 コンサート『歌暦Page'86恋唄』記録(平山雄一)。
・赤い長襦袢に裸足。赤いしごきで膝のあたりを縛る。自殺する女の衣装である。「今年のあたしはこんな年でした」と『片想い』を歌う。『狼になりたい』、『悪女』。女神みたいなところと娼婦みたいなところがあって、スティービー・ニックスみたい。『勝手にしやがれ』『髪を洗う女』『HALF』。衣装替えで黒のノースリーブで裸足。ギターで『鳥になって』『孤独の肖像』『クリスマスソングを唄うように』。バンドが戻って、『最悪』『テキーラを飲み干して』。ラストは『この世に二人だけ』『縁』。アンコールは『見返り美人』『やまねこ』『波の上』。世間のイメージを無視して、ストレートに今の自分を表現し尽くしたということであろう。

● 1987年 平山雄一によるインタビュー。
・オールナイトニッポンを辞めた。何を言われても、もう弁解する必要もないから。やっぱり私は日本人である。ただ、それを懐に持ちつつ別なもっと大きな答えも探しに行けるはずだ。

● 1987年 平山雄一によるインタビュー。
・撮影でポーランドのクラクフに行った話。自分をそういう場所に置いてみたくて選択したのだが、あそこまで暗いとは思わなかった。病人だらけ。医者の地位が一番低い。知識階級に地位を与えると反乱を起こすから、食っていけないようになっている。人間の尊厳が取り上げられていて、豚と同じ。サービスは死語である。アフリカのように物が無いから暮らしづらいのではなくて、人の作為的な行為によって暮らしづらい処。それとの比較で言えば、豊穣の夢の中で、今、あぶないところにいるからね、日本って。そこの中で、人間の根源的な苦痛ってなんなんだっていうことを、もうちょっと感じる必要があると思う。

● 1988年 コンサートツアー『SUPPIN』(1987)記録(平山雄一)。
・中島みゆきの問いかけは、人によって、好き嫌いはあるだろう。ある人は、その問いかけを歌には望まないのかもしれない。またある人は、その問いかけとは違う問いを自分に持っているかもしれない。そしてみゆきは他人の好き嫌いには関係なく、彼女自身が自分にずっと問いかけ、これからも問い続けていくもののひとつとして「生きていてもいいですか」とこの場で歌ったのだと思う。

● 1988年 アルバム『中島みゆき』インタビュー(平山雄一)。
・一人の民間人の感覚として言いたいことが一杯あるから、職業音楽家とは思っていない。自分でお金を稼いで暮らしていくようになったら、世の中を醒めた目で見てる暇は無い。

● 1989年 コンサートツアー『野うさぎのように』(1998年)記録(田家秀樹)。
・自分に何ができるのだろうと改めて考えてみた。。。オールナイトニッポンのテープを全部聞きなおしてみた。。。あたしは何も答えていない。。。いろんな人から元気にさせてもらっていたような気がする。。。と語り、『ファイト!』を歌った。真っ白いブラウスにジーンズというスタイルで、両足を広げ、両の握りこぶしをしっかり握りしめ、まっすぐ床に伸ばして直立で歌っていた。けなげだった。誇り高かった。涙が溢れて来た。。。
・(別途情報:)『吹雪』が歌われている。MCの中で中島みゆきは、「あまり自分の曲は解説しないのだけど」と前置きして、この曲が第五福竜丸や北海道の泊原発の反対運動がモチーフになっていることを明かしている。舞台セットについて、「第五福竜丸の船底みたいでしょ?」と触れ、また、歌詞の一部になぞらえて「ブームに気をつけて下さい」と発言している。中島みゆきは、5才から11才の間、北海道の岩内町という場所で暮らしていた。この町は、海に面していて、その対岸に見えるのが泊村なのだ。

● 1990年 第1回の夜会記録(平山雄一)。
・演劇と音楽の一体化を目指したホール、シアターコクーン。ステージの上に鏡像のように作られた座席に一人赤いコートを着た中島みゆき。『泣きたい夜に』、杉本和世が出て来てハモる。『毒おんな』、坪倉唯子がハモる。『杏村から』はやや諦観風になる。「あなたにとって今年はどんな年でしたか?と聞かれてもうまく答えたためしがない。」『03時』は鈴木茂のギターが冴える。『時は流れて』。。。一転して、アクティブに『群衆』『あり、か』『黄砂に吹かれて』。。。『わかれうた』『悪女』。。。ひたすら暗い中島みゆきから皮肉で反抗的で毒舌を吐く中島みゆきへの変化。着替えて、『あした』。この曲は中島みゆきの新たな側面、真摯な願いを直接歌うスタイルの最初である。いわば、中島みゆきが宣言した「私の歌」である。(以後の中島みゆきの世間的なイメージは、ドラマなどの主題歌の大ヒットに導かれて、この方向に形成されていくのである。)後半は、『気にしないで』『MEGAMI』『あわせ鏡』『鳥になって』と失恋女みゆきが再現されたかと思うと、『十二月』で客席を圧倒する。最後は『二隻の船』。
・この内容で見る限り、やや演劇風のコンサートという感じだったようである。(この第1回だけは全曲ビデオ記録が公開されていない。)

● 1990年 アルバム『夜を往け』インタビュー(藤井徹貫)。
・「新しさ」って、結果でしかない。模索する。結局自分を探しているということか。誰でもやっている。ただ、音楽でやっているだけ。何を望まれているかは考えない。聞きたくない人に無理やり聞かせたり、啓蒙したりすることはできない。自分なりの人生を生きてく人の歌を聞くことで、何かを感じ、何かを返してくれる人がいるのなら、私は私なりの生き方を歌でそちらへ応答したいって気持ち。そういうややこしいことが嫌いな人は聞かないだろうと思う。一時期、楽に聞けるのも試みましたが、それはやはり自分ではなかった。「こうしなさい」じゃなくて、「私はこうするよ。じゃああんたはどうするの?」で訊いてるつもり。

● 1990年 コンサートツアー『NIGHT WINGS』記録(藤井徹貫)。

● 1991年 『夜会1990』記録(藤井徹貫)。

● 1991年 アルバム『歌でしか言えない』インタビュー(藤井徹貫)。
・観察するというのなら自分。他人と関わらなきゃ生きていけないけど、自分以外の人を観察してその人を描いて歌にするってことはありえない。あくまでも自分の事としてでないと書けない。だから、どの歌もどこまでも自分の立場や思いとして書いている。北海道にこだわりがあるわけじゃないけど、詞を書いている時に、自分の中にじわっと出てきたら、素直に使うだけ。東京に対してもそれほどの思い入れはない。わたしの「たわわ」コンプレックスは凄いよ。

● 1991年 夜会『邯鄲』記録(藤井徹貫)。
・男と女の性を唄う『ふたつの炎』でクライマックスは始まった。老女が歌う『二隻の船』。「夜会」のテーマ曲だ。その老女は、生命の炎の前にひざまずき、その中のひとつを消してしまう。絶唱、絶叫の「殺してしまおう」。女がタクシーの中で目覚める。すべては夢であったのだろう。が、新曲『I love him』の後、置き去りにしたはずのウサギのぬいぐるみを抱いて、雪の中、道端に眠る女が現れる。え?もしかして、オープニングからすべて夢?そう思った瞬間に暗闇が降ってきて、3年目の「夜会」は幕を閉じた。

● 1992年 コンサートツアー『カーニヴァル』記録(藤井徹貫)。

● 1992年 アルバム『EAST ASIA』インタビュー(藤井徹貫)。
・前作に続いてのロサンゼルス録音となった。西海岸は広々として乾いていて子供の頃の北海道を思い出させる。それと、自分に「流れ者根性」を感じていて、その気分とも合う。『此処じゃない何処かへ』は、現状嫌悪というよりも、ここが駄目なら他所があるさ、という気持ち。耐え忍ぶことに対する否定。やはり日本人は日本人なんだってことを確かめたい。EAST ASIA の言葉の中では限定する作用と同時に拡散する作用が起きていると思っている。あるひとつを限定することによって限定されない他のものが見えてくる。私は日本人ですって認めるスタンスはあるけど、女の視点で見たとき、国境なんて見えない。論理を超えた生命力って確かにあると思う。それが私にとっての EAST ASIA。
・夜会『金環蝕』について。言いたかったのは、「日本の女ってどんな女?」ってこと。泣いて待って、忍んで耐えてって姿が理想の日本の女なのかなあ?と思ったのね。そうでない女はけしからんなんて、ふざけんじゃないわよ~!。権力の都合や歴史の状況で、そういう女性像を残したり印象付ける必要があっただけなのね。歴史を遡ると、アマテラスやウズメのような女性像だって日本にあったんだから、そのおおらかな女の人を見せてあげよう、と。お涙頂戴だけで男と付き合う女だけじゃなくてさ、もっとおおらかでなごやかに男の人と付き合う女の存在感を日本の女って本来持っていたんじゃないかな。そう思ったのが『金環蝕』のきっけけ。

● 1993年 夜会『金環蝕』記録(藤井徹貫)。
・最後に白衣の天文学者姿で中島みゆき。1992年12月24日に日本で金環蝕が見られる。そう語る。踵で舞台の床を踏み鳴らしながら歌い始める。『泣かないでアマテラス』。途中、学者姿から真紅のドレスに変わる。サナギから蝶になるように、だ。どんな女の中にも赤いドレスの女が住むのか。女たちよ、自分の中の蝶に気づきなさい。そんな意思表示だったのだろうか。赤いドレスのアメノウズメ。もしかしたら、あなたの中にもいるのだろうか。もしかしたら、僕の好きなあの人の中にも・・・。もしかしたら、母親の中にも・・・。

● 1993年 コンサートツアー『EAST ASIA』記録(藤井徹貫)。
・アジアの片隅で生まれて育った女の歌を聞いた。その歌のすばらしさゆえ、彼女は「魔女」と書かれたこともあるらしい。その歌が本物であればあるほど、「重い」だの「暗い」だのと因縁をつけて遠ざかる人もいるそうだ。しかし、本当のことは本当のこととして受け入れなくてはならないときが必ず来る。もしかすると、この人の歌は100年後でも残っているかもしれないと、そう思えたコンサートであった。
・フォークソングとは、彼女が歌った「おまえの家」や「僕たちの将来」のように日常の一場面の中から言葉に出来ない気持ちを歌うことである。
・広がる自然が目に浮かぶ『EAST ASIA』だった。だが、その大きさの中で僕に伝わったものはもっと個人的なものだった。それは「許す」こと。何を許すのかは言葉では見つからない。「受け入れること」と言っても良い。そんなラストシーン。

● 1994年 アルバム『LOVE OR NOTHING』についての言葉(藤井徹貫)。
・「今回のアルバムは個人的な歌ばかりです。理論よりも本能。」「人間には男でも女でもなかったころがあったわけだし。デビュー曲の 『時代』にしても、性別は関係ないし。私の中にはそういう部分があるんでしょうね。」

● 1995年 夜会『シャングリラ』記録(藤井徹貫)。
・歌い手と聞き手の間に物語という空間を設定することで歌がリニューアルされる。意味が変わる。

● 1995年 コンサートツアー『LOVE OR NOTHING』記録(藤井徹貫)。
・今回はよくしゃべる中島みゆきだ。ほぼ1曲ごとにフリートークが入る。夜会じゃ台詞以外はしゃべれないから、今日は思いっきりしゃべるからね、と笑った。相変わらず超躁状態的な口調。いつものように明るい。テンションは天井知らずの高さ。笑い声は豪快。ところが、イントロが鳴ると一瞬にして変身。歌手へ。歌の世界に埋没するのである。そして、最初のひと言を発生した瞬間に聞く者を自分の色に染めてしまうのだ。緊張感と集中力で金縛る。歌手であるという自意識が、その一瞬に凝縮されているようだ。そして、歌手としての底力が聞く者を深みへと引きずり込んでいく。・・・全てを歌い終えた中島みゆきは、会場のすべての人を抱きしめるような仕草で頭を下げた。そして、微笑んだ。虚脱の瞬間。観客が大きなため息をついた。

● 1995年 夜会セレクション『10WINGS』インタビュー(藤井徹貫)。
・香港公演では言葉が通じないので編曲も工夫したとか。『生きてゆくおまえ』はロサンゼルスで50人のオーケストラと共演した。テレビドラマ用の『旅人のうた』のレコーディングも始まる。中島みゆきの歌は中性的と言われた。次の夜会『2/2』も構想中。

● 1996年 ベストアルバム『大吟醸』解説(藤井徹貫)。

● 1996年 アルバム『パラダイス・カフェ』の話(藤井徹貫)。
・『阿檀の木の下で』は、必ずしも沖縄のことを歌っているわけではありません。歌のテーマ自身は17-18年前から自分の中にありましたね。ただ客観的に沖縄を見ている間は歌えないと思っていて、今まで歌にできなかったんです。だけど、己の後ろを振り返ったときに歌える気がして。誰の、どこの、何を歌っているのか、それが自分にとって何なのかを、考えてほしい。
・私にとっての音楽とはすでにあるものです。あるものを私が聞き取って歌っているようなものですね。だから、いつも耳を澄ましているんですけど。

● 1997年 コンサートツアー『パラダイス・カフェ』記録(藤井徹貫)。

● 1998年 夜会『2/2』記録(藤井徹貫)。

● 田家秀樹の書き下ろし『忘れない人』。
・何気ない一言、新聞の片隅の小さな記事、街で見かけた一瞬の光景、それが彼女の「悲しみの琴線」に触れてしまったとき、忘れられなく残っていき、記憶の片隅で増殖を始める。彼女の歌は消せない記憶の産物かもしれない。
・初めての小説『女歌』を出したときのインタビューで、「山崎ハコは女歌、中島みゆきは男歌、と言われたの」と言った。既に10年経っていてもその一言が彼女の記憶の中で増殖を続けていたのだろう。彼女の中にある男と女の二面性に、アルバム『私の子供になりなさい』では、母性が加わった。家庭という場面に閉じ込められない、大きな枠組みとしての母性である。

● 平山雄一の書き下ろし『再生の歌を』。
・ロックにしか関心のなかった自分はアルバム『予感』から彼女に向かい合い始めた。浮足立った消費者文化だけでは人間は語れないこと、暗部や恥部も含めて歌が成り立っていること、あきらめてはいけないことがあること、インタビューを通して実にいろいろなことにぶつかっていた。今でも思うのは、歌っていけないことというものがあるのだろうか、ということである。「夜会」は人の生き死にについてずっと語り続けていたように思う。「生きていてもいいですか」と問う登場人物が必ず居たように思う。それに対してみゆきさんは、いつも「再生」の歌を用意していたように思う。それがカタルシスになる場合と、却って絶望を招く場合があったように思う。そして、先日、10回目の夜会を見終わって思ったのは、「再生の歌」をストーリーから切り離して、独立した歌として歌うべき時期が来たのではないか、ということだった。

● 藤井徹貫の書き下ろし『夜会の10年』。
・助走期の Vol.1,2、既存の物語を持ち込んで独自の解釈を主張した離陸期の Vol.3,4,5。ビデオ版も作り始めた。そして、オリジナル・ストーリーを創り、大部分をオリジナル曲で埋めた Vol.6.7.8.9,10。Vol.9『2/2』再演と Vol.10『海嘯』は現時点で夜会の完成型である。今後は不定期開催となって次の模索が始まる。
・当初は、アルバムで発表された曲が物語の中に置かれて新たな意味を帯びることに関心があったが、Vol.7以降は、一遍も聞いたこののない新曲を、目の前で初めて聞かされたお客さんに、どの程度「歌の言葉」って伝わるんだろう、という風に変わった。

● 1999年 夜会についてのインタビュー(前田祥丈)。
・結局、母体は歌の詞なんです。わたしの場合、別に劇作家になりたいわけじゃない。脚本の力を借りたり、視覚の力を借りたら、同じ詞が違って聞こえないかしら、という意味でやったんです。いろいろと実験もやった。歌の歌詞と台詞の意味を変えてみるとか、歌われた歌を楽器だけで流してそれに乗せて台詞を言ってみる、とか。結局判ったのは、その場で初めて聞いた歌詞というのは聞き取りづらくて記憶にも残らない、ということだった。でも、私の理想は、その場で作った歌を、その場で歌ってベストなことが出来たら最高だと思っているんで、その可能性はこんなに薄いんだ、ということですね。

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