2012.03.07

    広島工業大学には多分東大系の心理学研究者が在籍しているのであろう。図書館には随分と環境心理学関係の本が揃っていた。面白そうな本を借りて読んでみた。佐々木正人「レイアウトの法則:アートとアフォーダンス」(春秋社)は、主にはアート関係のいろいろな雑誌に書いた文章をまとめなおした本である。最初の方にマニフェストみたいな文章があって、なかなか詩的であるし、神経生理学的事実とも符合する。要約する。

    初めての眼が地球上に誕生する前から、光には周囲にあることの構造が反映されており、それは動物の出現を待っていた。Darwinは光のレイアウトが植物の形を作ることを見た。Gibsonは光のレイアウトが動物に視覚を与えている事を発見した。動物では、移動する事と知覚する事は同義である。「移動は光によって制御されている。」光に加えて、振動、接触、重力、匂い、がある。これらは大気に生じる不均一性であり、一体のものとして自然が与える。炎や風合いといったものは個々の要素の集合ではなくて統合された全体として感じる。「温かさ」は人類によって「固さ」を制御するものとして利用された。これがデザインの始まりである。固さは隣り合うもの同士の固さの差異として認識され、「重力」は固いものを下にという原則によって固さの比をレイアウトした。動物はその固さの境界で生きている。「接触」とは固さの差異に立ち会うことである。「触る」とは(自然の)大規模な固さの勾配に、(身体の)小規模な固さの勾配を差し入れることである。レイアウトの変化が「出来事」である。周囲のレイアウトの揺れと動物のレイアウトの揺れが秩序を成すとき、それを「定位」あるいは「姿勢」という。光は環境を反映した「肌理」としてあり、その流れが動物に移動の知覚を与える。肌理の流動の変化を動物は移動の制御に利用する。身体の揺れを周囲の揺れに同調させることが「行為」である。「土木、化粧、料理」は、周囲の表面に意味を探し当てることの出来た人が、その意味を他の人に示したいと、表面に施した強調である。「創造」とは、レイアウトを修正して元の表面には無かった意味を作り出すことである。「手」は人にとって特別な存在である。絶えず目の前にあり、変形する。その変形と周囲の表面の変形が相関している。表面を引っ掻く手によって残された跡、そこに光(肌理)の変形を発見する。そこには残された知覚の情報が生じる。これが「ディスプレイ」である。そこから「像」、「文字」という「意味」の担体としての発展があった。それらレイアウトの複合体こそ「表象」である。

    絵画は見られるものである。それは視覚から逃れることはできない。視覚を3次元像の2次元平面への射影とした理論「視覚の像理論、遠近法」は絵画の理論を混乱させた。遠近法は固定した視点から覗いた画家と鑑賞者の行為に依存している。にも関わらず何故絵画は何処から見ても「意味」を齎すのか?像の理論はその答えを視覚以外に求めざるを得ない。予め鑑賞者の頭にある概念や観念や社会的習慣とそれによって再構成される過去の経験やイメージである。そもそも2次元の網膜像から如何にして3次元の像を再構成するか、ということが問題であるならば、それは視覚の問題ではなく古典幾何学の問題である。少なくとも昆虫の視覚や行動とは無関係であることは眼の構造からも言える。視覚は単に光のレイアウトに現れる「表面性」とでもよべる性質を周囲に探り当てているだけである。光は「放射」と「照明」の側面を持つ。放射とは光源の特性を示すが、「照明」は周囲の表面に反射してできる散乱光である。Gibsonは媒質中に居る動物を取り囲む散乱光を「包囲光」と名付けた。放射光は単なる「エネルギー」であるが、包囲光は「情報」である。この「包囲光」に基礎を置く事で、視覚理論は実在論へと飛躍できる。これを「生態光学」という。これは、遠近法的な像や像を結ぶための網膜を必要としない。結像しなくても、包囲光に潜在している情報を探し当てる器官さえあればよい。脊椎動物の結像する眼でも結像しない昆虫の複眼でも、あるいはもっと原始的な光点を持つ動物でも、全ての動物は視覚の情報を共有している。空と地面が作り出す大規模なレイアウトや接近する動物表面の肌理の拡大など。情報は脳の中にあるのではない。環境にある。視覚はそれを捕獲する活動である。捕獲するためには動かなくてはならない。眼は絶えず動いている。動くことによって「変形」の中の「不変」が発見される。画家は猫の形とともに猫の変形を描いている。絵画を見ることは像を解釈することではなく、画家が発見して表現しようとした不変情報を鑑賞者が画面に探すことである。それは環境の知覚(アフォーダンス)ではなく、他者(画家)が発見したアフォーダンスであり、他者の探究を探究することである。探究行為には終わりがない。絵画は探究の途中休止であり、その結実物(絵画)を鑑賞するのに何よりも必要な要素は観念や知識ではなく「時間」である。長く見つめ続けて画家の見出したアフォーダンスを発見しなくてはならないのである。

    真ん中辺はアーティストとの対話になっている。画家、写真家、建築家、書物のデザイナーである。とりあえずあまり興味が無いので省略。最後に佐々木正人さんの独り言みたいな文章がある。環境心理学者というのはいつもこんな観察をして考えてばかりいるのだろうか、と思ってしまうが、こういう純真は好感が持てる。

    頚椎損傷で首から下の感覚や運動機能が麻痺した人が「靴下を履く」リハビリの観察。身体が靴下と格闘しながらそのアフォーダンスを獲得する過程である。それは身体が4つの動きに分割される過程であった。1.体幹維持(上体の姿勢を倒れないようにする)、2.脚位置調整(足先を手元に持ってくること)、3.靴下に爪先を入れる、4.靴下を引き上げる。リハビリ経過の中で、これらの動きは未分化の状態から組織されていく。つまり同時に行われたり順番に行われたりしながら、最終的に滑らかに組織されていくのである。身体は言わば靴下によって「分割」され、それらが「協調」することで身体の側は靴下を履くという環境への適応を果たしている。さて、19世紀になって、運動研究は映画という手段を手にしたことで、映画の原理(静止画から動きを作る)に従って運動を理解するようになってしまった。つまり、瞬間の身体の配置が運動の単位であり、あとは脳の中にあるプログラムに従って個別の筋肉を制御して次の瞬間へと身体の配置を変えていく、ということである。しかし、1940年代ベルンシュタインという人が、その考え方には限界があると気付いた。身体にはおよそ100の関節と800の筋肉があり、どんなに簡単そうに見える運動でもそれら全てが関与している(ベルンシュタイン問題)だけでなく、その場その瞬間での環境とその変化の予測までもが情報として必要(フレーム問題)だからである。これらを記憶して制御するだけの能力は想定不可能であるし、実際に人工知能やロボット開発で確認された。ベルンシュタインは運動の単位は瞬間の身体の配置ではなくて「協調」であると考えた。多数の筋肉や関節の動きの連携そのものが予め学習されていて、それは単に実行されるだけなのである。それはどうやって学習されるのか?これもまた単純であって、具体的に環境に働きかけてその過程で試行錯誤しながら学習するのである。当たり前のように思うかもしれないが、学習された結果であるプログラムはその人の身体とその環境の個別性と普遍性の両方の刻印を受けており、同じものは2つとないから、人工物にはなりえない。月面に行けば地球上とは違うプログラムを学習しなくてはならないだろうし、そもそも身体構造そのものが変化していくだろう。

    魚が箸で食べられる場面をしつこく観察した結果、判った事。今度は身体が対象物を分割する。身と骨や皮との分割である。その原理は固さの差異である。身体の固さにとって骨は固すぎる。翻って人の作り出す環境を観察すると、人は周りを身体と同程度の固さと大きさの物で囲っていることに気付く。それはともかく、魚を分割する過程で魚全体の配置をときおり変える。このことも重要な意味を持つ。物は分割されるとその形を変えるために、当初の目的を見失う可能性があるからである。配置を変えることでそれを避けている。(個人的なことではあるが、91歳の義母が皿の上のおかずの配置をいつも箸で動かしている理由が何となくこれで理解できたような気がする。)魚はまだ判りやすいかもしれないが、登山ということになると、地図を手にして自分が何処にいるかを頭の中で再配置しなくては道に迷ってしまう。

    結局のところ、「行為」の原理は「無知」である。環境について無知である事を前提にしなければ、そもそも学習は起きないのだから、これも当たり前ではあるが、しばしば忘れていることである。
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