2006.01.19

    北沢方邦(まさくに)「音楽入門」(平凡社)を読んだ。新聞の書評を見て本屋で見て、東図書館で借りた。なかなかの博学である。この人は科学論が本職のようであるが、桐朋音楽大学でも教えている。音楽は記号体系であり、意味を持つ、という大前提がある。たとえ聴く人がどういう風に意味に結びつけようとも、作曲家の想定した意味はあるのであるし、その時代に理解する演奏家(多くは作曲家自身)や聴衆にとってその意味は自明であった。他方、意味は誤解されるし、伝わらないが、それでも音楽には機能がある。今日大量に消費される音楽は人を郷愁に駆らせたり、癒したり、踊らせたり、、、する。ともあれ、この本はその「意味」を語る。一通り目を通して、最初の章が見事なまとめになっていることに気づいた。当たり前であるが。

    音楽の意味は本来的には、宇宙論である。その民族にとっての世界が、宇宙が語られる。正確には身内にしか判らないにせよ、そのようなものとして発生した。この際道具はそれほど本質的でない。楽器は中国やら中近東から齎され、改良される。楽器音はある意味で人を超えていて、神や悪魔や自然を暗示させるから、音楽に使われるのである。音階も本質的ではないが、一般的に言えば、全音的な音階と半音的な音階は陽と陰の役割を分かち持つ傾向がある。(同じ歌でも半音下げて歌うことで意味が変わる。三味線でも調弦によってそれを別ける。琵琶もそうである。能の謡でも区別される。)話は東南アジアの諸地域に始まり(東南アジアと言っても宗教的には様々であり、音楽も様々であるが、)日本、中国、インドと来て、イスラム世界に至る。この辺まではそれぞれの民族音楽のシステムが解説されていてなかなか面白い。(笛や太鼓、スリットドラムの話は面白い。船が一種のドラムであったとか、日本でも裏返した形で神話に出てくるし、それに弦を張ったものが和琴である。インドでは朝、昼、夕刻、といった自然の移り変わりに応じて音階が決まっていて、部外者には判別できない。)

    ヨーロッパ世界において、音楽はそれ以外の地域とは別の「意味」を持つようになった。プラトンの音楽観までは、ハルモニアという比例計算が持ち込まれたにせよ、宇宙であった。教会に持ち込まれ(グレゴリア聖歌)、音楽はスコラ哲学的に抽象化されたにせよ(複雑なカノン、整数比を原理とした対位法)、個人的心情は抑制され、神の秩序を表現する記号であった。しかし、宗教改革、ルネッサンスによって、音楽は次第に人間の主観的感情を意味するものとなる。(このころ先進地域であったイスラムから楽器や音階が輸入されている。)

    バッハにおいては本質的には宗教的感情を表現している。北沢氏の意見では、バッハの本質は器楽曲にあって、宗教曲は義務的な作業に過ぎなかったという。バイオリンの独奏曲には妻を亡くしたバッハの宗教的心情が吐露されている。確かにバッハの魅力の一端は其処にあると思うが、宗教的な意味でのある種の客観性も魅力の一つではある。

    16世紀のオペラは人間の感情を歌いながらも、主題はギリシャ神話であったが、18世紀には幕間劇から近代オペラが、前奏曲から交響曲が発展し、市民社会における日常的な感情を歌うものとなった。何処が変わったか?ポリフォニーから5度、4度、3度音程を中心とした調性の確立である。(多声音楽自身は世界各地にあるが、もともとゲルマンやケルトは3度音程の和声や主和音属和音の推移を持っていた。)こうしてモーツァルトに代表される古典的な音楽を頂点として、更に革命の激動期に至り、ロマン派の音楽へと至り、その表現領域が広がるに従って、しかし、音楽の個人的心情という意味は伝わらなくなる。いわば共通の言語体系が崩壊するのである。個々の調性の意味やメロディーの意味や楽器音の意味が共有化されなくなる。北沢氏の解説を読むとベートーベンの音楽はそういった「意味」に満ちていることが判るが、残念ながらそれらの予備知識無しで音楽を聴いただけでは直接的にそこまでの意味は伝わらない。

    意味内容が複雑になるに従って音楽の形式は複雑化し、和声は化け物の如く発展するが、聴衆は理解できない。こういった状況に対して、ガムランに影響されたドビュッシーは、音楽の人間的意味を捨てて、音楽に景色や物としての意味として与えようとした。しかし、この方向も限界があり、ついには何も表現しない音楽が志向されるようになる。12音技法やセリー音楽といった、抽象的な音空間の秩序へと向かう。この辺の経緯(大勢の作曲家達!)が解説されていて、それぞれの作曲家の音楽を理解するためにはこういった予備知識、特に時代の背景知識、が必要なようである。

    その一方で、アメリカ大陸に連れてこられた黒人達の音楽は身体に根ざした民族宇宙的なものであり、そこから発展して西洋音楽と混血したジャズやロックの音楽が「世代」に共有される意味を担っている。それは大量に複製されることによって、世界中に分散した「身内」を作り出し、その内部で意味として伝達される。今日の音楽の「意味」はこのようにして、隣の人には伝わらないが世界のどこかの人には伝わるという奇妙な性格を持つ。(西洋クラシック音楽にしてもそうである。それは複製されることによって生じる体験の積み重ねによる。)ただし北沢氏はこのようには書いていない。「それらの大衆音楽はその時々の流行に支配される記号の大量消費の市場となる。人々はそのサイクルに取り込まれ、音の快楽からひと時も離れることの出来ない依存症となる。」としてやや否定的である。結論として、北沢氏は諸民族の宇宙論的な音楽の多様性に目を向けて、そこから今日的な新しい「意味」を持った音楽を作り出さなくてはならない、と言う。

    考えるに、人は結局のところ人間的な繋がりを求めて生きていて、音楽の意味もそこにあるのではないだろうか?適当なサイズの共同体が存在した時代には、それは宇宙論と重なったかもしれないが、今日的な人間世界の状況(都市的状況)においては、隣り合う個人個人の宇宙論が重なることがなく、どこか遠く離れたところに自分にとっての人間的な繋がりを想定せざるを得ない。そのときでも音楽は共有言語としての「意味」を持つのである。この点で自分で演奏が出来る人は特権的であるかもしれない。合奏することで隣り合う個人同士の繋がりを得ることが出来るからである。

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