2011.11.25
    「自己組織系と進化の論理」であるが、第8章と第9章での進化は他の生物によって形成される環境、すなわち適応地形が固定された条件での進化(適応)モデルが説明された。N個の遺伝子のそれぞれが他の(多分平均して)K個の遺伝子から干渉作用を受けて、その適応度への寄与を変えるというモデルである。適応地形の構造自身がK/Nに依存しており、それは大きすぎれば凍結しやすく、小さすぎれば拡散しやすく、中間位がもっとも進化に適している。新たに登場した種が最初は適応度が低く、大きな変化によって適応度を速く高めるのに対して、古い種はあまり変化しない、という傾向も見出され、過去の進化史の特徴を説明できたわけである。

    第10章「舞台でのひととき」は多分この本の最も中心的な章であろう。ここでは環境を決めている重要な因子として他の生物が取り入れられる。他の生物もまた適応によって進化し、その結果は当該の生物の適応地形を変える、ということである。共進化としてよく知られた現象である。古くは酸素を利用する単細胞生物は酸素を毒として排除してきた当時の単細胞生物に取り込まれることでミトコンドリアとなり安定な共生関係を築きあげた。顕花植物と昆虫も共進化である。ウイルスや病原菌と多細胞生物の間でもそれは認められており、共進化無しに今日の生物の由来を考える事は不可能である。捕食動物とその餌となる動物の間ではあ互いの武器開発競争が進む。これは永遠に続く傾向があり、「赤の女王効果」と言われている。「同じ場所に居るためには絶えず走り続けなければならない。」という名言に由来する。カオス状態とも言える。人間社会や技術競争の社会でも共進化の概念は拡張できるが、そこでは予め頭の中でシミュレーションする、というところが異なる。ゲームのモデルとしてよく知られているのは「囚人のジレンマ」である。1人が裏切れば他方に大損害を与えて得をするが、2人が裏切ると損をする。どちらも裏切らなければ中間的な刑となる。このときに安定な戦略をナッシュ戦略と言って、両方が裏切る、ということである。これは局所安定であって、ナッシュ戦略の元では1人だけが戦略を変えても不利になってしまうからナッシュ戦略が保持される。しかし、これは最適ではない。このゲームを何回も繰り返すという場合には、どちらも裏切らないが、相手が裏切れば次回は自分も裏切るという「しっぺ返し」戦略が最良であることが判った。つまりナッシュ戦略と赤の女王戦略を使い分けるのである。

    共進化を考えるというのはこのように複雑で予測しがたい状況を取り扱うことであるが、それをモデル化するために、遺伝子の数 N、1個の遺伝子の適応に影響する他の遺伝子数 K、に加えて、当該生物に影響を与える他の生物数 S、当該生物の1個の遺伝子の適応に影響する「他の生物の」遺伝子数 C、を考える。当然ながら S が小さければ、個々の生物が独立に進化して(K/Nが適当であれば)生物群が安定である(これをESS状態という)。C や S が大きくなれば「赤の女王」状態、つまりカオス的になる。個別生物の場合と違って、K については小さい方が不安定である。K が小さい場合には内部の拘束が機能しないために外部生物からの影響を受けやすくなるのである。平均的な適応度は、 C や S や K のようなパラメータ空間において、安定なESS状態領域とカオス的無限進化の状態との中間で得られる。シミュレーションとしては、更に生物が自らのパラメータ K を変更できるようにしておく。つまり、K を変えることで自分の適合度が上がるならばそれを選択するようにする。更に種の絶滅も考慮に入れる。そうすると系全体として最適な K が自動的に選ばれる。絶滅が起きた場合、あるいは新しい侵入者が現れた場合、他の生物の適合地形に影響を与えて、再び個々の進化が始まるが、それが更に絶滅を齎すことがある。絶滅の雪崩現象である。この競合環境の変化に対して最も頑強なのはやはり秩序とカオスの境界付近のパラメータなのである。秩序領域では K が大きくもともと局所最適化であるために適合度が最初から低すぎるし、カオス状態では K は小さくとも C や S が大きく、適応度を絶えず上下させていてもともと不安定である。

    さて、このようなモデル計算がどの程度本質を表現しているのかについては、論証できるものではないから、結果が合っていれば良いということになるのかもしれないが、例えば K というのは遺伝子間の相互作用であるから、これを変えるということが果たして生物にとって可能なのだろうか?という疑問が残る。S であらば、閉じこもればよいのだから可能だろうし、多分そういうモデルで計算しても同じような結果になるのであろうし、原論文ではいろいろと論じられているのであろう。

    この章の最後に自己組織化臨界現象の紹介が砂山の崩壊現象を例にして語られているが、あまり深入りしていない。2次相転移点近傍での臨界現象というのは、無秩序の中で小規模な秩序状態が揺らぎとして生じているような現象であって、一時期統計物理学の中心的なテーマになっていた。何故かというと、相転移を説明する単純なモデルである分子場近似(周囲の影響を平均化して近似する)によっては、その揺らぎの振る舞いが説明できないからである。具体的には臨界点からの隔たりに対するいろんな揺らぎの程度の依存性(2乗とか3乗とか、、臨界指数と言う)が合わないからである。つまり、臨界点付近では自己増殖的に分子間相互作用が働いていて、それが臨界点を超えると安定な構造(新しい秩序)に落ち着く、ということである。そのような状況をうまく計算するために考えられたのが、繰り込み群の方法である。通常の近似では何らかの平均化を行うのであるが、その平均化の範囲(スケール)は固定されている。繰り込み群では平均化の範囲が入れ子状態になっていて、小さな領域での平均がより大きな領域での平均を決めて、その大きな領域の平均が更に大きな領域での平均を決める、という近似を取り入れるのである。そして、その平均の決まり方がスケールに依存しない、という考え方をとる、というか、そういう決まり方になるように平均のやり方を探す。そうすると、臨界指数が見事に説明できるのである。(私自身は、化学の立場にあったので、そういうことはくだらない遊びだと思っていた。)ともかく、そのような臨界現象は相転移だけでなく、砂山が崩れる時のようなマクロな系でも観察されていて、砂山という秩序状態が落ちてくる砂によって崩れながらもその形態を保ち続ける、というのが一種の臨界状態(カオスと秩序の境界)と見なされる。そこでは同様に一粒の落下砂粒で引き起こされる崩壊のサイズについて冪乗分布が観測されている。地震のサイズの分布も似たようなメカニズムなのでやはり冪乗分布であり、有名な 1/f ノイズもそうなのであろう。つまり、こういう分布がある場合にはまず、フラクタル的なメカニズムが想定されるし、それは秩序と無秩序の境界にあるということを示唆している。これを現実の場面に当て嵌めて気になることは、この世の全ての秩序は進化の果てにこのカオスの淵に近づくのであり、そこではちょっとした変化によって、予測不可能な状態で崩れていく可能性がある、ということである。著者はただ、「注意深くあれ。ベストを尽くしなさい。しかし、やがて崩壊の運命にある。それは受け入れなさい。」としか言わない。

11/29
    今日はちょっと暑いくらいである。生協まであるいていくと汗をかいた。食堂には他大学の女子学生が楽器を持って集まっていた。多分合同のブラスバンド練習なのだろう。食後、図書館のソファが気持ちよかったので、半分位眠りながらも「自己組織系と進化の論理」を読み終えた。

    第11章「優秀さを求めて」も応用編であって挿話的である。利害が複雑に絡み合った大きな系において、如何にうまく最大適合度の解を見つけるか、というのは実用的で重要な問題である。よく知られているのは巡回セールスマン問題である。厳密な意味で最大適合度の解は困難であるが、それに近い解ならば、アニーリング法というのが知られている。これは系の状態を少しづつ変えるときに、変えることで適合度が上がる場合は変えるのであるが、適合後が下がる場合にもある確率で変えるのである。分子シミュレーションや統計計算で使われるモンデカルロ法と同じである。確率が高いということは温度が高いことに相当して、よく動き回ることを意味する。遺伝子アルゴリズムというのもそういうことらしい。

    現実の社会においてわざと適合度を下げるような改革を行うわけには行かない。そこで、経済界において流行している大きな組織から小さな組織への変化にヒントを得て同じ効果を齎しそうな方法を試みた。つまり、大きな系において、全体の適合度だけを基準にして適応していく場合と、部分系に別けてそれぞれが隣の部分系の干渉を受けながら適応していく場合(共進化)とを比較している。前者はスターリン主義ということで、局所最適に凍結し易い。逆に部分系のサイズを小さくしすぎた場合が、イタリアの左派になぞらえられていて、カオス的に放浪して行って安定状態に落ち着かない。全体の適合度という評価で見ると、その中間辺りに最大適合度がある。つまり、全体の適合度を目指すのではなく、お互いの矛盾を許しながら部分適合度を目指すことで、局所最適化から逃れることが出来る。これはわざと適合度を下げるような変化を許すアニーリングの方法ほどではないが、やはり全体最適化ではない方向への変化を許しており、かなり有効な方法である。これが「民主主義」の優位性を表すのだ、と著者は言う。物質系になぞらえると、これは揺らぎを与えることに相当する。揺らぎは正に物質系において微小な部分の最適化が起きていることを示しており、それによって系が全体として素早く平衡に達するのである。相転移が起きるような条件になると揺らぎのサイズが大きくなり、その揺らぎが全体を覆って新しい秩序が出来る。揺らぎが許されなければ、つまり急冷してしまうと、系が凍結してガラス状態になる、つまり局所的な最適化で動かなくなる。

    最後の第12章「地球文明の出現」はやや散漫である。生命システムの解釈として考えてきた自己触媒系の増殖による自発的な秩序の創生、という考え方は経済社会や文明の問題に適用できるのだろうか、ということで、その切っ掛けとなったのはウォルター・フォンタナの「生命創発」のコンピューター・シミュレーションである。DNAや酵素といった化学物質はお互いに作りあう記号列の集合としてモデル化できる。計算機の中ではデータもプログラムも記号列であって、プログラムは計算機に組み込まれた基本的な演算機能を使ってデータを変換できる。LISPは人工知能用に開発された言語であって、記号操作が出来るから、プログラム自身に対しても操作が出来る。勝手な変換を許すと意味の無い記号列の集団になって終わってしまうが、フォンタナは制限を設けて有意味な記号列にのみ変換できるようにした。記号列の集団から始めるとやがて生成される記号列の中に元の記号列が見られるようになり、自己を維持する記号列になっていく。条件によって2種類できる。一つは自己をコピーする装置として創発する場合であり、自己のコピーを許さない場合にはリスプ記号の自己触媒系となる。チューリング・マシンとかラムダ文法とか他のやり方もあるが同等である。

    経済は技術や商品やサービスの網目模様になっており、その中でそれらは共進化している。経済学者は相補性と代用、という概念で整理する。相補性というのは自動車とガソリンのようにお互いに相手があってこそ意味を持つような組み合わせであり、代用というのは馬車に対する自動車のように入れ替わる事のできるもの、という意味である。共進化や競合にとって重要な干渉作用(触媒作用)は相補性と代用という風に言い換えられる。この機能をLISP言語で表すことが出来る。つまり、相補性はデータとプログラムであり、その結果として新たなデータ=プログラムが生じる。もしも同じデータが別のプログラムでも出来るのであれば、それは代用である。経済の発展というのは、多数の技術、商品、サービスが作用しあって、新しい技術、商品、サービスと生み出していくネットワークであり、その進展によって生じるニッチが新しい発展の余地なのである。そういう意味で経済発展の指標となるのは、全体としての規模や成長率ではなくて、中身の多様性なのではないだろうか?というのが著者の言いたいことである。単一の産業だけでは経済は発展しないのである。新たな技術、商品、サービスとの出会いこそが発展の原動力となる。分子の多様性と相互作用の多さに対応するものは、技術、商品、サービスの多様性とそれらの変換規則(文法)の多様性である。いずれにしても、それらの2次元空間の中で、臨界線が存在し、臨界線を越えることで、経済の爆発的発展があり、その中で社会が持続するか、あるいはカオスとなって崩壊するのである。今や経済の規模が地球規模で一体化しつつあるが、それは地球規模での臨界線が超えられようとしている、という意味でもあるから、砂山のように小規模な崩壊とたまに起きる大規模な崩壊に見舞われながら少しづつ成長するが、崩壊の予測は原理的に出来ない。

    さて、随分前から知っていたこの本を読む気になったのは吉田民人の「自己組織性の情報科学」との対比をしてみたかったからである。どちらも同じ対象を見ており、カウフマンが物理の方法と立場から見ていて、自己組織系の起源を問うのに対して、吉田民人は社会学の方法と立場から見ており、生命や人間や社会の由来を問題にしない。むしろ、人間社会を進化の最高レベルのものと見なして進化の段階に応じて、情報は記号と意味に分化し、記号は自己組織体内部と外部に分化し、内部は分子レベル、細胞レベル、神経の信号、感覚、知覚、表象、言語、外部は無意識な身振りから言語までに分化し、更に社会となると、慣習やら法律やらが登場する、という風に分類学をひたすら追求するのである。そうすることによって、社会学を自然科学全体を含めて広く情報科学として位置づける事になり、その観点から見ると従来の社会学の守備範囲があまりにも狭いことに気付かされるからである。彼が重要と考えるのは、生命以降に登場する「プログラム」である。自己組織体によってその維持のために使用される情報、として定義される。その後、人文科学(生物学も含めたかったらしいが)は法則を発見するのではなく、プログラムを発見する学問である、という立場をとる。具体的に何がプログラムか、というのはまだ充分に定義しきれていないから曖昧さが残るが、カウフマン流の解釈で言えば、反応の秩序をうまく表現できているような分子の集団ということになる。DNAは確かにその重要な候補であるが、遺伝子の発現を支配しているもろもろの分子群もそれに絡まってくるとやはり曖昧になってくる。むしろ、曖昧さは認めた上で「プログラム」を発見し、それを改変することで社会変革を考えるというのが吉田民人の意図であったのだろう。

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