2011.08.26

      開沼博の『「フクシマ」論−原子力ムラは何故生まれたのか』(青土社)を読んだ。東大情報学部の修士論文である。提出した直後に3.11の大地震が起きて福島の原発が潰れたから、俄然話題となって本になってしまったのである。ここでいう原子力ムラとは原発の地元の社会の意味であって、通常言われる<原子力ムラ>、つまり原発を推進する電力会社や通産省とは異なる。開沼氏は福島出身であって、東海村を見学した時に現場の人に接して今まで抱いていたイメージとの落差があって関心を持ったという。

      彼の観点はその原子力ムラをなるべく内側から捉えた上で近代化に伴う一般的な問題として普遍化しようということである。外から見ると、一つは、原子力ムラは多額の助成金などで潤うことで原発を受け入れているけしからん、という見方であり、もう一つはこういう危険な状態にあるのは可哀想であって、早く原発を止めて彼らを救わなくてはならない、という見方である。しかし、これらは原子力ムラについての本質を完全に見逃している。原発は彼らにとってむしろ誇るべきムラの文化となっているのだから。こういう状況に至った経緯を辿るのがこの修士論文の一つの目的である。

      明治維新以降、地方の知事は中央からの官僚が派遣されてきた。しかし、派遣された知事が地方の実態を知るはずもなく、地方からの反発を受け続けたし、中央政界の再編に伴って頻繁に知事も入れ替わるという状態であった。地方は食料供給を除けば中央とは切り離されて独立した生活圏を作っていたのである。しかし、戦争も末期に入ってくると疎開だけでなく、都市圏ではできないことを分担させられるようになる。石炭の採掘であり、ウランの採掘であり、塩田であり、はたまた風船爆弾の基地であり、といった事業が齎された。それらは当然地方に都会の文化の恩恵も齎すのである。それらは当然、戦後無くなってしまうのであるが、そのやり方は残った。特に電力分野における独占体制は大きな遺産となった。もともと日本の電力は自由であったが、電力需要の急激な増大の中でトラブルが相次いだため独占体制が作られたのである。戦後地方自治が推進されて、知事が民選となってからは、むしろ積極的に地方が中央に働きかけて大きな事業を呼び込むようになる。福島県はその成功例であった。新産業都市開発法での指定を勝ち取り、只見川電源(水力)開発を勝ち取り、ついに原発の導入に成功したのである。塩田の跡地がまとまっていたのが幸いした。土地収用がスムースに進んだのである。そもそも原発の技術については誰も知らなかった。それは中曽根首相による電力戦略と米国GEの事業戦略が一致したことに由来する。原子力に対する国民の不安は正力松太郎による読売新聞を使った大々的なキャンペーンによって払拭されてしまった。原発の工事が始まるや否や原子力ムラは一変する。それまではムラには女性が残り男達は都会に出稼ぎに行くばかりであった。職が地元にあり家族一緒に暮らせることがムラにとってどんなに素晴らしいことであったか。福島が先頭を切った地方の復権は、しかし経済成長の鈍化と全国の地方との競争状況の中で次第に息苦しくなっていく。地方は必死で自らを売り込もうとする。原子力をブランドとして考えるまでになるのである。

      このような歴史を植民地主義の立場から見ると、戦前は国外への植民地主義であり、戦後はそれが国内の地方に振り向けられたにすぎないとも言える。戦前には食料と兵士の供給基地としてしか位置づけられていなかった地方が終戦前から戦後にかけては中央にとっての植民地(産業基地)となったのである。その統治のやり方は基本的に同じである。最初は威圧的に、やがて経済的依存性を利用して自発的な服従へと誘導していく。植民地政策と同じく、そこでは労働者が階層化される。かって戦前においては炭鉱で危険な労働をさせられたのは朝鮮半島から連れて来られた人たちであり、日本人の労働者とは一線を画されていたが、それと同じく、全国からかき集められた原発危険作業の労働者と地元採用の労働者は区別され、お互いにその実態を知らない。現在の原子力ムラは植民地支配の完成段階にあり、もはや容易には自立できないのである。福島第一原発から避難した人たちは新潟の柏崎刈羽原発に移動したにすぎない。彼らの大部分は原発なしには生きていけない。反原発運動はまず彼らの反発に出会うのである。現場から遠く離れて、あるとも無いともいえないような放射能の影響におびえている人たちは、まずは自分達の今までの無知故の植民地支配の実態を知る必要があるだろう。

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