2005.08.09

       酒井潔「自我の哲学史」(講談社現代新書)を読み終えた。西洋の自我は、元を辿るとプラトンのイデアに繋がってしまう。具体的な現象の背後に法則を見出し、それこそが実在である、とすることこそが科学であり、そのお陰で自然を体系的に利用し、産業革命から市民社会が発展してきて、共同社会の束縛から自由になった個人の思想として、デカルトの自我が生まれてくる。世界を鳥瞰する仮想的な神である。

      最初の反発はライプニッツであり、こちらはアリストテレスに繋がる。具体的な個物こそが実在であり、概念化、抽象化されたものはあくまでも一つのものの見方に過ぎない。例えば、人間、というのは概念であって、実在ではない。どんな過去を持ち、誰とどう繋がり、といった全てを含む存在こそが第一義的に存在する。そういう意味で、全ての実在するものは繋がっている、過去も。宮沢賢治の自我は、因果交流電燈であり、瞬間瞬間に変化していく存在である。西田幾多郎は、自我は主語的なものではないから、自我は何々である、ということ自身が無意味であるという。そうではなくて、述語的にしか語れないもの、何であるとも言えないものである、という。自己がそこにおいてあるもの、その場所に包まれている、ということであって、学的考察の対象ではなくて、行ずるものである。夏目漱石の自我は小説「こころ」において極まる。近代化の必要性の中で、西洋的な自我の仮面を被らざるを得ない日本人を最も意識した人であるが、ここには一つの解決の方向が示されている。究極のところ、それは道徳に繋がるからこその自我なのであって、何か概念的に規定されたり、こうあるべしと規定されたり、論理的に説得されたりするのではなく、自分はどうしてもそう思う、というところに本当の自我がある、ということである。主人公の「先生」は友人 K から恋人を奪うのであるが、それは一般的な道徳の見地からは何らやましいところはない。しかし「先生」は無意識の内に手練手管を尽くしていた自分が許せない。うまく原理的には説明できないけれども、それが自我なのである。(そういえば、大学入学試験の国語の問題で、夏目漱石についての自由作文があって、同じようなことを書いた記憶がある。)

      さて、酒井潔の結論はやや妥協的なものである。さしあたり日本人は、西洋的自我を仮面として着用し、昼間の世界を生きざるを得ないが、夜になればそれを脱ぎ捨てて、顔のない存在としてリラックスすべし、、、ということである。何ともはや。

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