2011.04.23

    この間近所の「恵文社」で見つけた「東京大学のアルバート・アイラー」菊地成孔+大谷能生(文春文庫)を読んだ。なかなか面白い。これは前編「歴史編」である。東大でジャズの講義をやったということである。2人ともよく知らない。ジャズミュージシャンだろうと思うが、現代思想にも詳しそうな感じである。ジャズを音楽における前近代、近代、後近代の枠組みから綺麗に整理して見せている。なるほどと思う。

    バロック後期に確立した平均律と調性と和声進行による音楽構造は正に音楽の近代化であった。その後西洋音楽はその武器を先鋭化して調性の限界に達して12音技法やら無調やらと「現代音楽」に繋がるのだが、調性音楽はアメリカでポピュラー音楽として開花した。第2次世界大戦期、ダンス・ミュージック、スィングの全盛期を迎える。その多様性と洗練性はしかし、その大戦中に徴兵を逃れた20代の黒人達によって生み出されたビバップによって過去のものとして切り捨てられる。

    彼らが行ったのはポピュラー音楽の旋律部分を支えていた和声進行だけを借用しそれを変形分割して倍の時間刻みとして、その上に自由に旋律を載せるという方法であった。それまではアレンジされたビッグバンドの中の一部であった即興演奏が主役になって、その腕を競い合うようになり、世界大戦が終わる頃には戦争に借り出されていたミュージシャンにとって全く別の世界が出現していた。

    これを菊地等はポピュラー音楽の「記号化」と捉える。それまでバッハ以降戦前のポピュラー音楽に至るまで、和声の部分はキチンと音符で書かれていたが、これ以降、和声記号で代用される。その実現の仕方は演奏者に任せられる。バロック期の通奏低音記号に戻るわけである。複雑な和声の付け方をまるでゲームのように実現していく、その全く知的な作業こそ即興演奏の醍醐味であった。

    この和声記号を標準化し、和声の進行のルールをアップデートして旋律の付け方やらリズムの在り方を体系化したのがバークレー音楽院であった。1950年代に至って、その体系化はモダンジャズと総称される成果を次々と生み出す事になる。ハードとかクールとかウェストとかイーストとか、いろいろと商業的な分類はされたが、基本的には同じものだった。この方向はコルトレーンの「ジャイアント・ステップス」で頂点を極める。そこでは、ポピュラー音楽ではありえないほど不自然な和声進行があえて選択されてコルトレーンは見事にそれを音楽化するが、ピアニストが失敗している。

    60年代、アメリカは米ソ冷戦、ベトナム戦争、と暗い時代を迎え、一方でビバップも商業化されていく中で、それを乗り越えようとした音楽の作り方として、一口に纏められたがいろいろある「フリージャズ」、そして「モード」が生み出された。その中には(オーネット・コールマン以外には)黒人に由来するリズム感覚が残っている。それは沈黙の続く間も全員が共通して刻む事が出来る同期したリズムである。

    さて、モードというのもギリシャからの遺産であり、それが整理されて長調、短調になったのであり、そういう意味では調性音楽からの更なる先祖還りということになる。モードにおいては進行ということが規定されないから、時間が止まり、即興演奏者は時間的に自由となる。そこでは演奏者の音楽的センスが問われる。

    一方フリージャズにおいては、それよりもラジカルに協和性そのものが否定されていく。雑音の優位性である。ドラムスやサックスが主役となったのにはこの雑音発生能力という理由がある。いずれにしても、この時期に至ってジャズは大衆音楽であることを自ら止めてしまう。ロックや、ビートルズの時代になるのである。

    その状況にジャズが反撃するためにとった手段は、一つは今までのジャズの遺産を耳に心地よいアレンジとして大衆化する、という方向であるが、70年代マイルス・デイヴィスが取った方向は、電気楽器と磁気テープの編集であった。モードジャズでありつつその内部に調性的な部分を含みながら、また複雑なリズムを多重に使いながら、才能のあるミュージシャンの自由な演奏を後で切り取って、「音楽」にしていく。この多重性のためには電気楽器の多彩な音色や雑音性が有用であった。3つのキーボードがそれぞれのモードで同時に演奏していく、という音楽をピアノでやると訳がわからなくなってしまうのである。マイルスはその後、ポピュラー音楽のあらゆる要素をその中に取り込んでアマルガムのような「ジャズ」を作っていく。

    さて、これら一連の歴史によって、ジャズは終わったのである。もはやバークレーメソッドは過去のものとなり、代わりに登場したのがMIDIである。楽音のあらゆる要素を記号化してコンピューター上で制御し「音源装置」に指示する。いわば作曲行為が演奏行為からその主権を奪還したのである。もはや演奏者は既に確立したもろもろのジャズ手法を如何に駆使して自らを売り込むか、ということ(解釈)しかできない。そこから新しい即興演奏の原理は出てこないのである。こうして「ジャズ」は完全に「クラシック」となってしまった。もっともポピュラー音楽は未だに和声進行に支配された調性音楽のレベルに留まったままであるが。

    この「講義録」は録音から起こしたものではなくて、大谷氏が書き下ろしたものだそうである。その書きぶりは見事である。それと、中で引用される演奏は凡そ半分位は知っていたので、そういう意味でも楽しめた。聴いているときはここまで考えていなかったが、過去の遺産の解釈としての即興演奏に対する創造された即興演奏の違いは確かに感じていて、それは演奏の生々しさとか、真剣さとか、切迫感とか、として何となく感じられるもので、それによって好き嫌いが決まっていたんだと思う。現存のジャズ演奏に殆ど興味を覚えないのもそのせいだろうと思う。

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