2001.06.24

      下條信輔の「意識とは何だろうか」(講談社現代新書)を読み終えた。東大の心理学出身で、アフォーダンス理論の洗礼を受けている。

      自己意識とは他者の目で見た自分である。言語の獲得はどのような状況でどのように言葉を使えば相手を自分の思っている通りに動かせるか、という体験の集積である。単に指差して教えて通じるのはある程度言語の獲得が出来た段階である。心の状態も他人から言葉で指摘されて教えられ、他人が同じような表情をしているとか、動作をしているとか、そういう事であの時の自分を投影することで仮想される。そういう体験を通じて自分の心の状態を想定するようになる。これが自己意識である。意識(知覚や体感も含まれる)は志向性や図と地の構造を持っているが、これらも他者の行動を予測し自分の行動に反映させるための適応である。他者の心を想定するように自分の心を想定する。

      意識の立場から見たとき脳の働きの全体が見えるわけではない。残された部分は全て無意識である。しかし全てが意識されない訳ではなく、その境界は曖昧である。意識は言葉やイメージの助けを借りて、周辺部に分け入っていくことがある。しかし無意識の領域は脳の働きそのものであるから、生理的な手段で大まかにはアプローチ出来る。物理的に見てニューロンのつながり具合や神経伝達物質からは心の働きそのものは判らない。それらの意味はその人の人生経験と身体と環境によって具体的に決まっているのであるから、脳の内部だけでは意味が確定しない。判るのは心の働きを支えている一つのプロセスに過ぎない。多くの人が共通した脳の来歴を持つという事はある程度言えるし、遺伝的に近ければ似たような脳の部分が似たような機能に特化されるということは理解できる。ニューロンの繋がりかたも似たようなものになるであろう。しかし類推出来るのはその辺までである。問題はつまり「意味」である。一連の物理・生理現象の繋がりはそれとして、環境と繋がり、全てが繋がっても「意味」は見えてこない。むしろその全体が「意味」なのである。あるいはそこから何を読み取るかという観察者の中に「意味」が想定されるとも言えるが、これはまた別の意味である。

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