2016.02.09

「意識はいつ生れるのか」マルチェロ・マッスィミーニ;ジュリオ・トノーニ(亜紀書房)。立花隆の「臨死体験」のテレビ番組を見て、面白そうだと思い、図書館で予約しておいた。半年位前だったか。。。「意識の統合情報理論」である。

      医学的な意味での意識というのは所詮覚醒のレベルまでであるが、それでも理論の意義は大きい。患者が感覚神経や運動神経の経路を損傷しているときには、意識があるのかどうか、が判らなくなる。なければ植物状態なのだが、時折応答を示す最小意識状態もある。全身麻酔手術では意識が無い筈なのだが、それを確かめる術がない。実際に意識が回復していて手術後にその記憶が残ってしまった例もある。大脳皮質の非侵襲観察だけで意識があるかどうかの判定ができないものだろうか?

      まずはニューロンの活動度が基準であろうが、膨大な数のニューロンが活発に活動しているからといって、意識があるとは言えない。テンカン発作においては意識が無いのである。また小脳には大脳皮質を上回るニューロンが存在するが覚醒意識とは無関係である。著者達の仮説によれば、ニューロンの活動のやり方に特徴があるのである。それは、お互いに孤立することなく、また同期してしまうこともない状態である。その状態を確認する実験手段を開発した、というのがこの人達の第一の新規性である。それは、大脳皮質の一部を経頭蓋磁気刺激法(TMS)で刺激して各部分の脳波の変化でそのエコーを観察する、という方法である。これによって、「感覚刺激や運動指令とは無関係に」大脳皮質内部での情報伝達の様子をミリ秒単位で測定できるのである。意識が無いときには、刺激部位以外での脳波が観測されない(孤立)か、全ての部位で同じ脳波形が観測される(完全同期)。各部位でさまざまな脳波形が生じるときには、大脳皮質内部の複雑な情報処理が行われている状態、つまり意識がある、ということになる。ノンレム睡眠では意識が無く、レム睡眠中の夢を見ているときには覚醒時と変わらない応答が見られた。患者が意識を回復する前兆も観測できるようになった。

      孤立も同期もしていない状態というのは、物性物理の2次相転移のモデルにおいては相転移点(臨界点)付近に見られる。そこでの特徴は大きな揺らぎであって、それは刺激に対する大きな応答として実験的に確認できるから、全く同じ理屈である。相転移モデルでは温度がそれを制御するパラメータであったが、大脳皮質では中脳にある網様体賦活系からの信号でニューロン間の連結度が制御される。そう考えると、これだけで意識と称するには何か物足りない気もする。意識は通例一つの意識である。だからこそ、大脳左右半球の結合が切断された場合(分離脳)、二つの意識が共存する。この「意識の斉一性」はどう説明するのだろうか?勿論、斉一性は生きていくために必要だから適応学習したには違いないのであるが。そういうことになると、やはりカオスの理論が必要になるのだろうが、実証は難しい。

      ただ、もう少し詳しく大泉匡史氏の「意識の統合情報理論」(Clinical Neuroscience, vol.32(8),905-912(2014))を読んでみると、その辺が明確になる。どんな系だって一時点で形式的な意味での(記号としての)「状態」は一つしか取れない。上記の斉一性というのはその(内的な)意味の事である。内的意味付けは現在と行き来可能な他の状態との「差異」によってなされるしかない。その差異がどの程度であるかについては、状態間の遷移確率が判っていれば「計算」できる。これがシステムの生み出す内的情報量ということになる。分離脳の場合は相手の脳の状態に到達しえないから相手の脳内での差異が加算されない。つまり(意識の質としての)意味が2つに分裂するのである。

      しかし、この内的情報量だけでは少しでも繋がっている多数のシステム全体はそれぞれのシステムよりも大きいことになる。そこで「統合情報量」を、システム間の結合を人為的に切断したときに内的情報量がどれくらい低下するか、と定義して、これを意識の定量的基準とする。いろいろな切断をしたときに、最大の統合情報量を持つ部分だけが意識を持つという風に定義(排他の公準)し、排除された部分についてはその中でまた切断をして意識の座を定義する。こうして、複雑に結合しあった情報発信受信体の集合をその結合の密な部分毎に分離することが可能となり、われわれが日常的に想定する意識の座が個人の大脳皮質にある、ということと矛盾しなくなる。分離脳については、脳梁の結合が回復していくと、ある閾値以上で左右の脳が統合された意識を回復することになる。ただ、現実の脳で上記のように定義された統合情報量を測定することはできないので、意味的に類似の測定をすることになる。それが最初の磁気刺激と脳波の応答実験である。

      もうひとつ気になったのは、他の動物に意識があるかどうかの議論である。当然意識はあるだろう。しかし通常その内容は理解できない。つまり、意識というのはシンボル記号の世界であって、その内的意味は内部の結合によって推定される過去の記憶によって決まるが、その外的意味は人間同士の約束事として初めて内容が知られるのである。逆に言えば、人間と犬にしても長年付き合っていればある程度は犬の意識内容が判るということでもある。ただ、その内容は個別的な人生の履歴であり、神経生理学の範疇を越えてしまう。更に、「自己意識の起源」や「意識と自由意思の関係」ともなると、人文・社会科学の領域になるのであろう。
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