2006.05.27

   「文明崩壊」ジャレッド・ダイヤモンド・楡井浩一訳(草思社)

    文明崩壊には5つの枠組みが複合的に作用している。

1.環境被害、2.気候変動、3.近隣の敵対集団、4.友好的な取引の消滅、5.環境問題への社会の対応。
これらを機軸として、過去の文明崩壊の例を分析して共通性や個別性を論じ、教訓を引き出すこと。

   「すでにわれわれは、マヤ及び第2章から第4章で論じた過去の社会と現代の社会とのあいだに、いくつが類似点があることに思い当たっている筈だ。イースター島、マンガレヴァ島、そしてアナサジと同じように、マヤでも、環境問題と人口問題が戦争と内乱の増加につながった。イースター島とチャコ渓谷と同じように、マヤにおいても、人口が最大値に達したとたん、政治的かつ社会的な崩壊が起こっている。イースター島の農地が沿岸の低地から最終的に高地にまで拡張され、ミンブレの農地が氾濫原から丘陵地へ拡張されたのと同様、コパンの居住地も、氾濫原からもっと脆弱な丘の斜面へと広げられ、その結果、丘陵地における農業の発展が衰退へと転じたときには、それまでよりおおぜいの人口を維持するための食料が必要になっていた。イースター島の首長たちがその時々に最大の石像とたてたあげくブカオと載せたように、またアナサジの支配層の人間たちが、トルコ石のビーズを二千個つなげたネックレスで身を飾り立てたように、マヤの王たちも、より見事な神殿をより分厚い漆喰で塗り固め、互いに負けまいと懸命になった。その姿は、これみよがしに浪費を重ねる現代アメリカのCEO(最高経営責任者)たちを髣髴させる。これらの不穏な類似点の締めくくりとして、イースター島の首長たちも、マヤの王たちも、現実の重大な脅威を前にしながら、なんら能動的な打開策をこうじなかったことを挙げておこう。」

    和歌山への行き帰りで、「文明崩壊」の下巻を読んだ。結局環境問題が主題であり、詳細に亘った事例解析はやや煩わしく、飛ばし読みをした。イースター島の物語も知らなかったし、ヴァイキングのグリーンランドの話も知らなかったから、そうだったのか、という感じはある。ニューギニア高地の話も面白かった。

    僕達の社会は自由と人権が重んじられて当たり前と思っているけれども、過去の「成功」した社会では必ずしもそうではない。個人という意識そのものがあまり無かったということで、それがどの程度不幸なのか?想像がつかない。生贄にされた人は喜んだはずも無く、抵抗したに違いないが、当時の社会ではそれが自然であった。しかし社会が破滅していくときの混乱状態はどんな時代や文化においても不幸そのものである。そう考えていくと、ほんの数百年前に確立した我々の「個人としての権利」が環境という観点から見たとき、負の意味で語られるかもしれないと思う。ある意味でそれは限りない物欲の一つにすぎないかもしれない。

    ちょっと前の話では、ハイチとドミニカの対比的な歴史も知らなかったので、興味深かった。確かに歴史や地理は社会的決断にとっては有用な学問である。現在オーストラリアの環境問題がこんなに深刻とは思わなかった。中国に至っては確かに世界を破滅させる勢いである。先日のテレビでも中国が大量の大豆を輸入するためにブラジルの原生林が切り開かれているという番組があった。しかし何よりもアメリカ合衆国がその成立の歴史の遺産「限りない文明の発展:フロンティア」の意識に囚われたままである。アフリカ南部も悲惨である。

    人の遺伝子は数百人規模以上の集団での適応がまだ出来ていないような気がする。しかし我々はそれ以上の集団を相手にして生きざるを得ない。そこには「技術」の発達があるわけだが、それに対して人は本能的に振舞うと悲惨な結末にしかならないのである。限りない「理性」が求められる。しかし「理性」たるや、なかなか御しがたい。ロベスピエールの独裁政権は「理性」を神としたわけで。共産主義もまた限りない「理性」への信頼を語った。どうすればよいのだろうか???
<一つ前へ> <目次>