2022.04.25
今月の『100分で名著』はハイデガーの『存在と時間』である。西洋哲学の主題が人間の生き方に絞り込まれたという転回点になった。彼の本来の主題は「存在する」という事自身であったのだが、それを論じるには人間存在の本質を明らかにしておく必要がある、として、その部分をまず書物にしたのがこの本である。これを上巻として下巻が本論になる予定であったが、書かれなかった。戸谷洋志さんの解説は多分ものすごく簡略化して判りやすくしてあるのだろう。
・・・人間の日常に「現存在」という語を宛てて、それは世間「世人」の考えに合わせてとりあえず生きている、という状態であり、本来的な自分を見失っている、と考える。これは社会的存在としての人間にとって避けがたい傾向である。それによって自分は他の誰でも良いような人生を送る。自己の「本来性」に目覚める機会としては、絶対に他者と代替できない自分の「死」があるのだから、人間は「死」と向き合うことによって、世人の考えから自由になる。あれもこれも実は本当に自分のやりたいことではない、という気付きがによって、何の指針もない自己自身の探索が始まる。そこから来る「不安」に立ち向かうことを「投企」という。
・・・聞いていて、僕は自分の高校時代を思い出した。当時、兄が大学進学の為に家を出て、僕は兄に気を遣う必要がなくなり、それが僕を自分のやることを自分で決めなくてはならないという状況に追い込んだ。自分の好きなように生きる、ということを目指したとき、その「自分」とは何か?という解きがたい問題に直面した。今までは家の中や外での不都合な状況についての愚痴ばかりを並べていた日記が、自分の欲望をひとつひとつ採りあげての点検や、自分が将来どのようにして生きていくべきかという考察に変わった。どういう仕組みだったか、その考察を学級日誌にも転載するようになり、クラスの中でもそれに興味を持ってくれる人たちが現れて友人となり、さまざまな助言をくれたり、本を紹介してくれたりした。
・・・僕の場合は、頼りにべき「世人」が居なくなったから「現存在」を点検し始めたのであるが、一般的な場合、何故「現存在」のままではいけないのだろうか?それと、自分の死と向き合うことで「世人」の倣いから解放されるとして、その場合それが良いのか悪いのか?判断基準は無いのか?ここまでのハイデガーの話は何だか知的エリートの自己満足でしかないように見えるし、このままでは自己中心主義の行き着く先が危いように思える。実際、ハイデガーはナチズムに加担することになる。
・・・『存在と時間』の最終回は、ナチスに加担してしまったハイデッガーを乗り越える視点を語った2人のユダヤ人の弟子達、ハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの話である。
・・ハンナ・
アーレントは、ハイデガーが「世人」の影響を切り離した為に、他者との関係を切断したのだが、それは無意識下にある他者に支配されたということに過ぎないとした。そうではなくて、他者無しには自分も無いのだから、意識的に他者との対話=「活動」によって、「世人」とは別のコミュニティーを作るべきである、という。このような人間の在り方をアーレントは「複数性」という。それぞれが異なっていて、異なっているからこそ「公的」な議論が出来る、そういう関係である。
・・ハンス・ヨナスは、ハイデガーが「死」と向き合うことで得る「責任」、つまり自分の過去がどういう経緯であったとしても、それは自分自身の責任として引き受ける、という決意の不十分さを指摘する。過去の自分の責任を引き受けるだけでは何の指針にもならない。引き受けるべきは未来責任である。つまり、他者の未来に対して自分が影響を与える、という自覚である。ひと言でいえば「倫理」。

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