第8章「何をなすべきか?誰がなすべきか?」はこの本が構想される前にネットで流通して評判になっていたらしい。第1章で説明された金融恐慌を踏まえて、著者の「反資本主義」構想が語られている。共産主義という言葉を避けたのはそれが既に手垢にまみれていて誤解を生じるからである。

      最初に、度重なる、そして今回の大規模な金融恐慌を経験しても、銀行は税金で救済され、失敗した投機家は再生していて、それを支えているのは投機家からの「合法的な」議会へのロビー活動や資金の提供であることを述べている。株式市場の回復は実体経済の回復に繋がらず、雇用なき景気回復である。国境を越えた独占化が資本の「破滅的競争」に対して経済システムをますます脆弱化させている。アメリカ国内の困難は輸出されて、ヨーロッパに波及している。中国とインドが今や経済を支えている。

      資本主義以外の選択肢として、社会主義があり、これは主要な産業(剰余生産)の国家管理と累進課税と福祉による利潤の分配を特徴とする。それはヨーロッパで一定の定着を見せたが、アメリカの新自由主義的攻勢によって次第に崩れつつある。共産主義は資本主義とは全く異なる財とサービスの生産分配様式を目指していた。現実的には国家統制と計画経済であり、これは失敗に終わった。現在の共産主義的試みは、国家統制を拒絶し自律的に組織された生産者と消費者のネットワークをその中心概念としていて、これは現代の通信技術で支えられている。いわば無政府主義への復帰運動ともいえる。

      年率3%の限りなき経済成長は不可能なのであるが、それを可能と思わせる虚構(金融資本主義)によって、富の偏在が促進され、失業率の増加や生活水準の低下と経済成長が永続し、その節目に恐慌が起きて振り出しに戻る、このような資本の循環を断ち切るような革命が必要である。そのためには、過去の革命運動の失敗と同時に資本主義自身がどうやって生まれてどうやって進化してきたのか、というメカニズムの解明が必要である。資本主義の発展自身がその7つの活動領域の間を強化しあう形で循環する弁証法的運動によりなされたことを思えば、反資本主義もまたその経過を辿らねばならないだろう。変革は現状の内にある可能性を利用する以外に始められない。それはさまざまな地理的条件に規定されている以上、さまざまな活動分野で始めざるを得ない。それらは一見異なったお互いに矛盾した政治運動に見えるかもしれないが、それを関係づけることが重要である。むしろ、それらを横断しての戦略を立てなくてはならない。経済成長は貧困や不平等を減らすための前提条件であるとか、自然食品のようなきめ細やかな環境政策は金持ちの贅沢のためである、というのは誤りである。そのような論理を逆転させることこそ重要である。反資本主義的運動は広範囲に亘る。内的関連についての深い理解が必要である。領土的競争についても、必ずしも悪いものではない。何を巡っての競争なのかに拠る。しかし、共通の目標について一定の大雑把な合意は必要である。自然の尊重、社会的諸関係における平等主義、共同利益の感覚に基づいた社会的諸制度、民主主義的な行政手続き、直接生産者によって組織された労働過程、新しい社会的諸関係と生活様式の自由な探究としての日常生活、自己実現と他者への奉仕に焦点を当てた精神的諸観念、軍事的な権力や企業の強欲を支持するのではなく共通善の追求を目指した技術的・組織的諸形態、といったものである。ラディカルな平等主義の追求という視点からスタートしたとして、問題はそれと他の活動領域との関係である。それは資本主義的再生産に必要な根本的不平等である階級という概念の検討なしにはありえない。階級は現実に存在するにも拘らず多くの場合無視されてきた。それは複合的で重層的だからである。一人の人間があるときは労働者でありあるときは投資家でもある。階級は個人に付随するラベルではなく、役割なのである。

      資本主義における個人の自由は私的所有と市場によって媒介されている。フリードリッヒ・ハイエクは、1940年代における国家暴力に直面して平等主義と個人的権利を守る唯一の方法は不可侵に私的所有権を社会秩序の中心に据えることであるとした。しかし、反資本主義の立場からはこの深く定着した見解に正面から挑戦しなくてはならない。私的所有ではなく共同所有の権利という新しい概念が必要である。資本主義の中では平等は市場において認められていても生産においては崩壊する。労働過程における平等主義こそ重要である。日常生活においても、一旦私的所有と市場の制度を認めてしまえば、平等主義は貧困者のホームレス状態と金持ちの閉じたコミュニティーを作り出す。生産における平等主義は労働者の共同事業体などに萌芽が見られる。この方向は自然に対してもそれが市場の対象なのではなく、全員が平等な権利と責任を持つ公共財であるという認識を必要とする。

      誤った思想は破壊的な結果を齎す。1930年代の破局においてもそうであった。それを理解するにはそれまでの「知の構造」を変えねばならなかった。それはケインズとその同僚たちによってなされた。しかし、1970年代にはその思想は機能しなくなり、マネタリズム、サプライサイド理論、美しい数理経済学の理論がケインズ主義の大雑把なマクロ経済学理論に取って代わった。今回の金融恐慌はそこで定着した「新自由主義」という知の構造の変革を促しているが、もはや殆どの経済学者は方向を見失い、大学では新古典派経済学や合理的選択の政治理論を繰り返し、ビジネススクールでは経営倫理学や他人の破産からお金を稼ぐ方法の講義を追加しただけである。

      資本主義の元で剥奪され略奪されている人々には2つの大集団がある。一つは労働過程における存在、つまり労働者である。工場労働者は階級意識に目覚めることで資本の流れを塞き止めることが出来るから、伝統的な革命理論(プロレタリア革命)は工場労働に固執した。しかし、これには限界がある。林業や農業、非正規労働、家内サービスほかのサービス業、空間と建造環境の生産者、を2次的セクターとして扱うわけにはいかない。これら「プレカリアート」と呼ばれ始めた人々はこの30年間に、企業リストラと脱産業化によって増加し続けている。過去の革命運動を見てもその中心は工場労働者ではなく、もっと広い都市基盤に基づいていたのである。もう一つの大集団は、土地や天然資源を合法的に略奪され、強制的に市場交換に統合された農民や先住民である。現代においてはこれら古典的な略奪に加えて金融機関による株価操作や投資詐欺、合併・買収による資産の強奪、国家に債務を負わせて国民を債務奴隷にすること、が含まれる。WTOの貿易関連知的所有権協定は、更に進んで遺伝物質や原種子などを特許ライセンスの対象とするところまで来ており、これらの生産者である当の住民全体に敵対的な形で用いることが可能となった。実は、恐慌というのはこのような資産強奪の大規模な局面のことなのである。それは必ずしも制御不能というものではなく、むしろ意図的に特定の国や特定の部門に限定することによって、収奪手段として使われる。IMFは専門的にそれを行う機関である。恐慌を起こす事によって下落した資産は買収され、過剰資本の投資対象となる。1997-1998年の東アジア東南アジア、1998年のロシア、2001-02年のアルゼンチン、そして2008-09年もそうなるであろう。

      略奪の中には資本の蓄積とは無関係なものがある。民族的、宗教的なものであり、それらは反資本主義運動には結びつかない。また資本家からの略奪は正当なものである。略奪に対する闘争は重要であるが、それが古い秩序を擁護することであってはならない。我々の観念を変えること、偏見を捨てる事、新しい日常体制に自己を従わせる事、社会的・政治的役割を変えること、権利・義務・責任を割り当てなおす事、行動様式を集団的ニーズと共同の意志に従わせる事なしに、革命的変革は不可能である。

      反資本主義運動の主体はどこにあるか?既に伝統的左翼は主役になっていない。一つの運動がNGOであるが、それぞれのNGOは目的を限定しているだけでなく、その資金提供者の政治的立場によって制約されている。第2はアナーキスト、アウトノミア派、草の根組織(GRO)から発生している。水平的ネットワークを好む彼等は何らかの中央の監督が必要であるという考え方に反発する。第3は伝統的な労働組織と左翼政党の中で起こってきた変化によって生まれている。この30年間厳しい打撃を蒙っており、労働者の前衛に依拠するスタイルが疑問に付されている。第4は国家権力による排除と略奪に抵抗する社会運動である。これは広範囲に亘るが、その一部は問題がシステム的なものであるということに気付き始めている。他の地域で発生している社会運動との同盟が作られる傾向にある。これを補助して、彼等を共通の目的に纏め上げることこそアントニオ・グラムシが述べた「有機的知識人」の役割であろう。第5はアイデンティティ、女性、子供、ゲイ、マイノリティーの諸問題からの解放運動である。

      マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」には、共産主義者はいかなる特殊な政党も持たない、とある。資本主義的秩序の限界、没落、破壊的傾向を理解し、資本主義擁護のイデオロギー仮面と正当化理論を暴露し、資本主義が約束するものとは異なった未来を準備するために活動する、という定義を与えている。この定義に従えば良いのかも知れないが、現代において「共産主義」は歴史的経過によってこの定義とはかけ離れた失敗者を意味する言葉として流通している。そこで、反資本主義運動と定義せざるをえない。まずもって資本の謎が解き明かされなくてはならない。何をなすべきか、何故なすべきか、どのように開始すべきなのかを容易に理解するために。

      この本を書いたのが2010年で、ペーパーバック版へのあとがきが2011年に追加されているのでまとめておく。金融恐慌のその後は、アメリカ、ヨーロッパにおいて深化しており、中国とインド、及びその交易国であるオーストラリアやチリ、ブラジル、ドイツ、は順調に回復した。アメリカでは雇用無き景気回復が生じて失業率が高止まりである反面ウォールストリートの住人達は浪費的ライフスタイルを回復している。国家債務危機を口実に社会保障費用が削減されている。緊縮政策は銀行を救うために国民に負担を強いるものである。1982年のメキシコではニューヨークの投資銀行の救済のためにIMFが代行して支払い、メキシコに緊縮政策を強要した。ギリシャの場合はドイツとフランスの銀行を救済した。ギリシャはかってアルゼンチンが2004年にそうして成功したように、債務不履行にした方が良かったであろう。アルゼンチンは、その時、今後国際投資家に相手にされなくなるだろう、という脅しを受けたわけであるが、そんなことはなかった。過剰資本を抱えて利潤の上る市場を必要としている海外投資家は2、3年も経つと投資を再開して経済が回復したのである。いずれにしても、メキシコやギリシャでの緊縮策が下院選挙での共和党の勝利によって今回はアメリカの国民自身に降りかかるということになる。

      北米とヨーロッパにおける赤字恐怖症と対比されるのは中国のケインズ的積極財政政策である。輸出型産業の打撃とその後の失業の脅威に対して中国政府は6,000億ドルを超える大規模なインフラ事業をスタートさせ、各省や民間事業に対する信用保証をした。この債務が果たして返済されるのかは不透明である。インフレの昂進と不動産バブル、新たに建設された内陸部の諸都市への海外からの投資の不調、などの不安材料がある。中国における「影の銀行システム」(資産と貸付の相対取引)がどの程度規制されているのかは判らないが、アメリカよりは統制がやりやすいのは確かである。更に、2010年には突然自然発生的なストライキに寛容となり、賃金の上昇を放置する政策に転じた。結果として、海外資本は他の東南アジア地区に移りつつある。医療や社会サービスへの投資も増大しているし、最近は環境技術の開発にも力を入れている。

      中国の回復は原料輸出国を復活させると共に、それらの国の内部では土地収奪を推進している。ヨーロッパではドイツが工業機器の輸出で潤ったが、その景気刺激策に由来するインフレを恐れて、ユーロ圏全体に赤字削減の財政政策を浸透させた。ドイツのような産業基盤を持たないポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペインがその結果として金融危機に見舞われている。

      それでは、中国やラテンアメリカやインドの活況がどこまで続くのであろうか?明らかに資源や環境の限界があり、残された土地であるアフリカへの中国の野望もそれを見据えての事である。ケインズ主義の景気刺激策は短期の不況に対処するものであって、どこかで打切らねばならず、それは難しい政治判断となる。

      われわれが善意に満ち倫理的傾向を持っているのか、それとも自ら強欲に耽り破壊的に競争しあうのかはどうでも良い問題である。終わりなき資本蓄積と終わりなき成長の論理はわれわれに、隠れた至上命令として、絶えず付きまとっている。市場の見えざる手はその一つにすぎない。そこには巧妙に植えつけられたあらゆる政治的主体性が付随している。われわれはそれに正面から立ち向かい、克服しなければならない。東アジアや南アジアや湾岸諸国でアメリカ型ライフスタイルを追及することで資本主義的成長を再活性化しようとすることは根本的に誤っている。先進国での緊縮策や発展途上国の成長は本質的な解決ではなく、時間稼ぎであることを認識すべきである。という事であるが、「オルタナティブはこれから発見されなくてはならない。」

      以上で終わりである。この本を手に取ったのは第1章の分析を立ち読みしたからで、池上彰程度の期待しかなかったので、ここまで政治的立場を明確にするとは思わなかった。具体的には大学の教授なのであって、このような言説がどの程度人を動かすのかはよく判らない。金融資本の勝手気ままな運動が問題であるのは誰もが判ることである。その理屈を明確化するという意味で大変勉強になったし、この本がベストセラーになったのも納得できるが、かといって個人的には資本主義以外の経済は未だに想像の範囲外である。さしあたり、この本では登場しなかった日本の経済政策がどう位置づけられるのかを考えて見るべきかもしれない。

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