最近通勤バスの中で、ニコラウス・アーノンクールの「古樂とは何か」(音楽の友社)を読んでいる。随分昔に買っておいて最初の方だけ読んでそのままになっていた。前半部分は1980年に書かれた。要約する。

    ヨーロッパの音楽はギリシャ思想における数学的調和の原理とキリスト教会の精神秩序の中に位置づけられてきて、18世紀までに支配階級、信者、知識人の間で生活の中で生きてきた。教会ではそのたびに新しく作られた音楽が演奏され、聴衆はそれから明確な意味を読み取っていた。つまり音楽は一種の言語であり、理解すべき対象であった。このような音楽が根本的に変革されたのはフランス市民革命による。言語としての音楽から美としての音楽へ、とでも言うべき変革があったが、それはまあ結果であって、本質的には、言語のように伝承される表現方法ではなくて、方法論が客観的な基準で整理されて一人でも学ぶことが出来る音楽体系が出来上がったのである。フランスのコンセルバトワールの成立は音楽を大衆化し、新しい合理的な楽器の発明により音楽表現の幅は広がった訳であるが、同時に言語としての独特のアクセントを昔のスタイルとして忘却の彼方へと追いやった。古楽器の持つ不自由さはかっては表現手段であったのに、音量や音色の均一性が求められて、省みられなくなった。こうして、ロマン派→後期ロマン派→とヨーロッパの音楽は「進歩」していき、18世紀以前の音楽は価値の低いものとして捨てられたのである。

    20世紀に入って、ヨーロッパの音楽は行き詰まった訳であるが、これは近代的な社会システムがさまざまな矛盾を見せてきたためでもある。共産主義、ファシズム、大量虐殺や大戦争、核兵器、、、という具合に、「進歩」という考え方が疑問に付され、構造主義と比較民族学が生まれる。そのような流れの中で、さまざまな民族音楽や北米でのジャズと共に18世紀以前の音楽(古楽)も復活した。いわばクラシック音楽という美の体系が現実生活の中で宙に浮いて、意味の体系としての音楽が求められたのである。にも関わらず、未だに古楽を古楽として演奏することの意味が必ずしも理解されていない。楽器はどうあれ、古楽にはその当時の演奏スタイルを採ることによってしか表現できない意味がある。その演奏スタイルたるや、もはや文献によってしか知ることが出来ないものであるから、演奏者は必然的に学者にならざるを得ないが、演奏にはあくまでも肉体化した演奏技法が必要である。一方で、古楽器が流行し始めると、楽器業者は古楽器もどきの楽器を量産し、間違ったイメージを植えつけてしまう。また古楽器さえ使えば古楽の演奏スタイルになるかのような誤解もしばしば見られる。まあ、ざっとこんな感じのことが主調になっている。

    実際にクラシック音楽の演奏家達がアーノンクールが批判しているような状況なのかどうかは僕には判らない。概して機械的に正確で「客観的」な演奏に走り勝ちなのはそうかもしれないが、現実的にはそれを乗り越えて「表現」としての音楽を求められている筈であるし、古楽を機械的に演奏したのでは殆ど音楽にならないということも熟知されているのではないだろうか?

    具体的に、どのような演奏をすべきか、ということについては一般論は語れないわけであるが、テンポ、拍子、アーティキュレーション、音階と和声、音色、という個々の要素にある程度の特徴が見られる。

    もともとヨーロッパ音楽において、テンポや拍子という概念はなかった。全ては語りであり、言葉が発音されるように演奏されるべきものであったから、小節の区切りにはあまり意味はなかった。しかし楽器が入ってくるとやはり、部分的には語りよりも拍子を合わせる必要のある場合が生じてくる。勿論俗界での踊りの要素が入ってくると必須となる。やがて拍子の中で強拍弱拍の区別が生まれて、高貴さと卑しさという対比的な意味を与えられる。ただし、これは音の大きさという意味ではなくて、心理的なものである。具体的には拍の長さで表現される場合が多い。拍の長さは不均等であるのが当たり前であった。この点は今日の標準的な演奏技術との著しい相違である。音符の表現は同一であってもその意味は違っていたのである。付点音符は正確に1.5倍の長さに、というのは後世に生まれた便宜的な解釈に過ぎず、実際には場合に応じて変えるべきものである。長い音符は逆に言うと、それが強拍になるという意味でもあるし、むしろそういう意味の方が重要である。スラーの使い方も異なる。スラーが付いた2つの音符は最初の音符が強拍であり後の音符は消え入るように演奏されるべきことを示しているのであって、必ずしも滑らかに繋ぐという意味ではない。これと関係して、前打音は不協和音として強調され次の音で消え入るように解決される。この関係は楽譜にどう記載されていようとも滑らかに繋がれなくてはならない。一つの音程が細かく切られるような書き方は以前は存在しなかったし、そういう演奏も避けられていたが、バロック期に到ってギリシャ思想によって意味が与えられた。すなわち感情の昂ぶりである。これは自然的にそうなのではなくて、意図的に意味づけられたのである。こういった風に多くの音形には言葉と同様の「恣意的な」意味が与えられていて、当時の「教養ある」人達はそれを理解していたが、音楽の大衆化によって大部分が忘れられたのである。

    音程については比例関係が第一義的に重要である。オクターブ1:2、完全5度2:3、完全4度3:4、長3度4:5 の関係は協和して耳に響くというよりも、簡単な数比である、ということに意味がある。この観点から4:5:6となる長3和音は「恣意的に」もっとも高貴な響とされた。最高の楽器がトランペットという倍音系列のみで音階を構成する楽器であり、これが神の象徴であったのもその為である。もともとのギリシャの音階は5度の積み重ねによるものであった(ピタゴラス音階)ので、そのなかの長3度には3:4よりも幅の広い音程が含まれていた。音階としてはどの音から始めても良く、それぞれドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアという旋法としての名前が付いている。しかし、長3和音を完全な終止として認めると、終止音に向かう心理的な傾向(調性)が生じてきて、最終的には長調と短調に整理される。その整理の仕方には、音程をどこまで完全に実現するかについての矛盾と妥協があった。長3度を完全に4:5にしようとすると5度が不完全になるが、これは中全律としてしばらく鍵盤楽器に用いられていた。しかし、転調が出来ない調律法であったために、更に妥協が進み、長3度を許容の範囲内で広めにとることで、平均律が発明された。これは12等分ではないので、各調における相対的な音程関係は微妙に異なり、調の個性が残されている。12等分が実現したのは電子楽器によるものであって、今日のピアノにおいても実現されているわけではないが、今日の標準的な楽典では便宜的に12等分として教えられている。問題はわれわれの耳自身が広めの長3度に慣れてしまっているために、4:5の長3度に対して鈍感であることである。これは古楽を演奏・鑑賞する上で障害となっている。いずれにせよ、西洋音楽が和声を重視するのもギリシャ思想に由来するわけであり、今日世界中の音楽がそれを基準としてしまったために、われわれの耳は偏ったものになっている。

    音色の均一性については特にフルートにその相違が生じてくる。バロックフルートはキーが1個しかなくて、基本的にD音を基音としていたから、ニ長調とロ短調に適していた。今日のフルートはベームによって発明されたもので、12音全てについて音色と音程の均一性をほぼ実現しているし全ての演奏家はそれを目指してひたすらトレーニングをするわけである(もっとも、実際上は#系の音階の方が容易であるが)。しかし、このようなバロックフルートの不均一性は欠点ではなくて、音楽表現として利用されていたので、今日のフルートで演奏すると機械的で大味な表現になり勝ちである。バロックフルートを使っていてさえも今日の演奏家は過度に均一な音色を実現し勝ちである。

    テンポについては、当時の演奏では作曲者が規定すべきものではなかった。演奏会場の音の響きによって最適なテンポが異なり、演奏家に任せるべきものだったからである。テンポ記号として残っているものは表情のための記号であり、こちらの意味の方が重要である。例えば、アダージョは装飾音をつけて華麗に演奏する、という意味であり、グラーヴェは装飾音無しに厳粛に演奏する、という意味である。

    後半はやや時代を遡った時期(1954年)のものであって、音楽の歴史が述べられている。イタリアで始まったバロック音楽とそれに対抗する勢力として頑強に抵抗したフランスのバロック音楽の対比。それらを統合しようとしたフランドルやドイツの音楽や、イタリアから輸入されながら、独特の内省的な音楽となったイギリスの音楽。器楽についてはイタリアのオペラから発生したソナタ形式における対話と、フランスの舞曲から発生した組曲形式の対立。イタリアの音楽がギリシャの対話の哲学に由来する語り朗誦する音楽であるの対して、フランスの音楽は平衡感覚と論理性を踊りの中に見出していく。

    イタリアバロックの父はモンテヴェルディである。特定の意味をもつ音形(フィグーラ)の体系が出来上がった。ヴィヴァルディは勿論その大家であったし、これはバッハの対位法の中でも守られているし、モーツァルトまでは音楽が対話であり劇である、という考えが支配的であった。モーツァルトの音楽は決して美しいだけのものではない。その奥に対話を感じなければモーツァルトに軽蔑されるであろう。

    フランスバロックの父はイタリア人のリュリである。自由奔放な即興ではなく厳格な規則で縛られた形式。その抑制された優美さが特徴である。リュリは組曲にまとまりを与えるためにフランス風序曲という形式を発明し、イタリア以外のヨーロッパ全域に広まった。フランスのオペラはバレーの発展形であり、アリアを持たない。ラモーはその伝統に多くの新規な響を加えて、古典派に繋がっている。

    ウィーン、北部ドイツ、ではイタリア音楽とフランス音楽の融合が進行した。テレマンはその代表選手である。バッハとは対照的にテレマンは多くの楽譜を出版した。イギリスでは音楽は私的サークルで演奏される室内楽であった。ヘンリー・パーセルとドイツ人のヘンデルがその代表である。

    バッハについては多くを述べていない。テレマン、ヘンデルが外交的で華々しい活躍をしていたのに比べると、日々教会の為に作曲を続けたバッハにおいては音楽が緻密で深い。経験の浅い演奏者のためにバッハは本来は即興的に演奏すべき音を楽譜に書き入れている。このような作業が作曲そのものの緻密さを誘導したような気がする。バッハの組曲についてはその有るべき姿(意味)がよく説明されていて、演奏上参考になると思われる。
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