夜中にまた雨が降り出した。少し明るくなってきて5時である。モーツァルトのK304が鳴り出して止まらないので起きた。この単純極まりない緩徐楽章は一体何なんだろう?

      さて、「生きていることの科学」最終章は「スケルトン−質料の形式」とあって何のことやら?でも、今までの章は序論であって、この章が本論らしい。ロボットが知能を持つためにはプログラムだけでなく、物質的肉体をもつことが必要である。要するに形式的に書き下せない、表象化できない部分があってそれは物質に委ねるしかない。ただ、そうはいってもインクの切れたボールペンから立ち現れる紙に傷を付けて書ける能力のように、漫然と期待するだけでは「科学」にならない。引きこもった人たちにそんなことを言っても彼等の生活は変わらない。(こんなことは言っていないが。)そこで、「質料」の抽象的意味合いを形式にして、いろいろな様相に実装して使えるようにする、というのがこの章の目的である。

      我々は素材に対して、それが(我々の欲求を)可能態と実現態に区分するものと想定した。要するに意志というのは現実とは独立にあって、それが実現するかどうかは環境の物質的基盤で決まる、ということである。しかし、実際はそうではない。素材自体に可能性と実現性の区別を無効にし、曖昧にする機能が潜在すると考えられる。この区別と曖昧化は同一の地平では扱えず、「事後」とか「潜在性」という捉え方が必要であった。この区別の創出と無効化を繋ぐものをマテリアルとか質料とか名付けたのである。しかし、単にそういうものがある、というだけでは何の慰めにもならない。その質料性の形式を捉えるということは、ベルグソンのいう elan vital (生命性)を論理として把握し、ある程度扱えるようにする(科学)、という事に他ならない。(このあたりは私の解釈である。)まあここまでは納得である。

      そこで、著者は問題を更に絞り込む。今までいろいろな事例を並べてきたけれども、それらは結局、部分と全体、という問題に帰着すると考えて、それに取り組む訳である。全体は部分の単なる寄せ集めではなく、それ以上のものである、というのが我々の常識としてあるし、それは生命の本質でもあるだろう。この部分の寄せ集めと全体の一括把握という見方が対立しているというのがシステムの考え方である。例は挙げるまでもないが、例えば神経細胞の寄せ集めと意識の間の対立概念。前者が外延的描像で、後者が内包的描像。これらを繋ぐものとして「貼り合わせ」操作を考える。神経細胞と神経細胞がお互いに相手の環境であるように振舞うことである。全体性を創り出す貼り合わせ操作に質料の形式を見出すことになる。(まあ、確かにそれしかないのだろうが、こういう局所的な処方で役に立つのだろうか?という気がする。)

      ここで数学の概念に入る。貼り合わせ操作というものを数学的に定義する。例えば偶数という内包的概念を創り出すために個別の偶数(部分)を考える。2のみがあるときに、2を加える(一般的に偶数を加える)という操作(これが貼り合わせ操作)によって全ての偶数を列挙することができる。それらは2の倍数であるから「2で割り切れる」という内包的概念の定義が抽出できることになる。細切れにされた絵を貼り合わせるのも同じであって、それは細切れの境界同士を比較して共通していれば繋ぎ合わせるという操作である。一般的には断片同士の関係を見積もるある種の目盛りみたいなものがあって、それを使って貼り合わせている。その目盛りを数学の概念にすると「位相空間」ということになる。(ところで、著者のやっているこういった議論そのものが貼り合わせ操作に他ならない。質料性の例を挙げておいてそれらの共通性を探し出して内包的概念として質料性の形式を創ろうという議論なのだから。)位相空間という言葉が何の説明もなく登場したので、数学辞典を参照すると延々と語られている。要するに以下のどれかの公理を満たす集合(どれかを満たせば他も満たすことが証明されているから)として定義されている。
・・・近傍の公理、開集合の公理、閉集合の公理、開核の公理、閉包の公理・・・
必ずしも距離の概念を必要としないが、近傍の概念は必要である。公理の内容はともかく、その手口は部分集合(集合の一部)の集合(つまり部分集合それ自身を要素と考えた時の集合)を考える、というやり方である。こういうのに慣れていないと以下の議論が理解しにくくなるだろう。モノの見方とか視点とか細かさも含めて、それらは、一つの位相空間を選ぶ、ということになる。要素を細かく区別した空間であればミクロな描像となり、要素をひとまとめにした荒っぽい空間ではマクロな描像が得られる。スケールという言葉も位相空間を指定する方法である。(位相空間を想定するということはとりあえずはその内部が世界になるわけであるから、言ってみれば神様の立場に立って見る、ということになるのではないだろうか?)

      貼り合わせというのは数学で言えば「」という操作に相当する。

      これも数学辞典で調べてみるとまず「前層」というのは、位相空間での開集合(境界を含まない集合 U)に対応する別の集合(F(U))という全体の体系であって、個々の開集合(これが部分に相当する)間の包含関係に対応して相当する別の集合間に準同型写像があるときである。V が U を含むならば、F(V)→F(U) という写像があり、更に W が V を含むならば、F(W)→F(V) であるが、F(W)→F(U)の写像は上記2つの写像を続けて行ったものになる。(数学記号に慣れていないと紛らわしいが→は集合から別の集合への対応ではなくて、集合内の要素から別の集合内の要素への対応を表す。)多→一の対応を含み、要素を減らしていくことになるので、制限写像と呼ばれる。大域的なデータから局所への対応であり、その大域というのは視覚的には空間内で層構造として纏まっているというイメージである。著者は、「各視野において見え方はただ一つ決まる」、ということで前層を定義している。各視野内の対象の集合が開集合 U に相当していて、F(U)が見え方に相当しているのであろう。F(U)の要素は見えたもの(像)ということか?そうすると視野において見え方が一つに決まるというのはあまり意味が無い。多分、本来的には視野を含むより大きな視野(開集合)での像を想定していて、それは必ずしも元の狭い視野の中にはないが、何か本当の像であり、しかしながら、視野を決めてしまえばそれはその視野内に制限された像に写像されている、ということなのであろう。

      次に「」であるが、これは勿論前層であって、次の条件を満たすものである。まず、V が U を含むとき、F(V)内の要素 s (これをV上の切断という)を考えてこれが写像 F(V)→F(U) によって対応する先の要素 t (これはF(U)の要素である)を 切断 s のU上への制限と呼ぶ。t=s|U という記号が使われるらしい。さて、また U に戻って、s も t も今度は F(U)の要素であるとする。Uの部分開集合が沢山あって、それらを合わせる(重なっていてもよいがそのときは片方の要素だけを採る)と U になるとする。これを開被覆という。それら任意の部分集合上で s と t を制限したとき、つまり、F(部分集合)内に写像したとき、それが一致するならば s = t である(これは全体を被覆しているから常識的にはそういう風に思えるが)。

      次に、今度は開被覆する全ての Ui に対して 切断 si (F(Ui)の要素)が与えられている。これの UiとUjの共通部分(記号∩)集合上への制限 si|(Ui∩Uj)と 同様な  sj|(Ui∩Uj) が同じであるということが全ての i,j の対について成り立っている時に、一つだけ s が存在し、s の 全ての Ui 上への制限 s|Ui が si に一致する。このような条件が成り立っている場合にその前層を層と呼ぶらしい。どうもよく判らない。数学の本は手元に無いし、インターネットで調べても一つしか出てこない。

      著者は簡明に、視野(Ui に相当する)同士の共通部分(Ui∩Uj ということ)において、両方の視野での見え方が一致する、という説明をしている。この見え方というのも背後に上記の唯一存在する s が想定されているように思えるが、まあともかく、そうであるならば2つの重なり部分を持つ視野同士は接続してより大きな視野が定義できるということになり、これが繰り返されれば全体の視野が手に入る。つまり部分を貼り合わせて全体を再構成することが出来るし、その為の条件を定義した、というのがこの「」という操作の意味らしい。
(昔大学で習った解析接続と良く似ている。正則関数(複素関数として微分可能)であれば一意性があるので、どんどん定義域を拡張できる。一周すると別の層になっているために多値関数になることもあるが、そういうのも層というのだろうか?まあそんなことはどうでもよい。)
ここでは数学的な層という操作で得られる全体は一意的であり、客観的なものであるということである。これに対して部分的な見え方は主観的なものと言えるだろうから、この関係は人間世界での部分−全体とは丁度逆になっている。数学的な形式では超越的な視点としての全体像しか用意していないから、主観は限定的知識としか言えないからである。ところが、日常生活では観測者が有限の立場に立っているから、全体像という場合は幾つかの具体例から勝手に想像したものであって、それこそが主観的と言われる。逆に部分の寄せ集めは時間や能力の限界を考えないならば誰にとっても同じだから客観的ということになる。数学的に部分から全体に行ったのでは行き過ぎであって、逆に数学的な全体(点や線の極限)から数学的な主観(点や線を広げた内部構造)を見出すという操作が必要になってくる。うーん、、どこまで付き合えばよいのか???そろそろ本当に疲れてきた。

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