最近、図書館で借りてきたゲオルギアーデスの「音楽と言語」(講談社学術文庫)を読んでいる。これは西洋音楽をかじる人にとって必読書かもしれないなあ、と思う。音楽というのは諸民族にとって言語と並んで普遍的な文化現象であるが、西洋のクラシック音楽というのはその体系化が特異的で資本主義と共に世界を席巻していて、僕達の音楽意識が知らず知らずの内に支配されている。日本人であり正規の音楽教育を受けていない僕には和声とかポリフォニーとかいう西洋音楽の多声性が本質的に異質なものに聴こえてしまうけれども、楽曲の緊張感とか終結感とかいうのは明らかに多声的なものに違いない。勿論教会という音響空間を最大限に利用し尽くそうという要請がそれを推進したには違いないが、そもそも西洋音楽はどうやって多声性を獲得したのか?前々から疑問に思っていて、いろいろと勉強はしていた。この本はそのあたりのことをずばりと解析している。

      この特殊な「音楽」は古代ギリシアのムジケーと呼ばれるものに由来して、それは所謂舞踊に付随した音楽(民俗的な音楽)ではなく、神々を語る言葉、長短のシラブルの規則的な連続による、叙事詩、韻文、であって、そこでは言葉と音楽は一体であった。長短のシラブルの連続は今日で言う拍子(繰り返し)ではなく、言葉と一体となって続く旋律的リズムであった。(おそらく書き言葉を持たない民族では、その民族の共有する神話の伝承がそういう形にならざるを得ない。)

     ところが、紀元前後ギリシャが衰退し、ギリシャ語が散文へと大きく変貌を遂げ、音楽的要素は失われた。(ゲオルギアーデスはギリシャ人である。)イエスの死を解釈したギリシャ人はギリシャ語で初期キリスト教の教義を作り上げる。そのときに使われたのがこの非音楽的な散文であって、これがローマのラテン語の聖書に引き継がれる。教会で唱えられる文句はいかにも散文的であり、儀式を盛り上げるためにこれを音楽的にしようという努力が行われ、グレゴリア聖歌として整えられるが、この単旋律はピタゴラスの調和の原理から4度音程という発展性のない伝統的な音響に閉じ込められていた。

     ところが、ゲルマン民族がキリスト教に帰依すると彼らの音楽がそこに持ち込まれることになる。グレゴリア聖歌は教会の規則であるから使わざると得ないが、そのラテン語の内容を敷衍した説明の為の朗誦が並行して低音部で唱えられる。やがてラテン語の言語は音楽の要請に従って意味不明なまでに解体されてしまい、主客が逆転して、低音部の追いやられるが、ゲルマンの音楽は3度音程という移り行きを好む音程(4度や5度や1度に安定化する傾向)を持つ事から、その動きを利用して、言語の意味に沿った「作曲」が行われるようになり、楽譜が使われる。そもそも作曲というのはいくつかの朗誦を組み合わせるという意味である。15世紀のパレストリーナやモンテヴェルディにその成果が典型的に見られる。というところまで来た。僕はあまり聴いた事がないので、これから聴いてみようかと思う。

      要するに、西洋の「音楽」が多声にならざるを得ない必然性というのは、キリスト教という非常に強力で民族的には異質な宗教が規定し、教会によって強要された意味不明の朗誦が諸民族によって解釈されていったから、ということのようである。多声によって、直接的には判らないけれども何か深遠な教義があり、それを世俗的に解釈する人が語る、という構図が出現する。更に、ミサのような長時間に亘る儀式に統一性をもたせるための工夫がなされる。各声部が輪唱していくような方法もその一手段として発明され、フーガの原型となる。やがて宗教改革によってラテン語の権威は相対的に下がって、民族がその言語のリズムに基づいた朗誦を作り始める。この頃になってやっと言語と音楽が調和を回復する、ということのようである。そして、キリスト教そのものの比重が下がっていくと、個人の苦悩や恋愛や民族の運命が音楽で語られるようになる。

      もう少し言い換えると、クラシック音楽の起源には、音楽が単なる楽しみや踊りの契機ではなくて、崇高な意味なり感情なりを表さなくてはならない、という宿命(つまりキリスト教の布教)があって、そのために言語世界を模した体系が必要となった、という風に整理できるのかもしれない。だから、音楽を単純に音響現象とヒトとの相互作用として科学的に考察しただけでは理解できなくて、それを補完すべく、やはり来歴に依存する言葉としての音楽、という見方が必要なのである。勿論、他の民族音楽ではそんな必要性がなかったかというとそんな事はないのであり、イスラム教やヒンズー教においても、精緻な音楽体系が生まれたのである。しかし、西洋における音楽体系はその主たる担い手としての階層を、僧侶から王侯貴族、更に市民へと、歴史的に変えてきたために、音楽体系が教育向きに整理され、楽器が改良され、何よりもその表現すべき内容が大きく変容してきた、というところがある。つまりこの音楽ウィルス(一般的には調性音楽)は感染力を磨いてきたために、今日世界を席巻している、と考えられる。西洋近代国家は世界各地を植民地化し、キリスト教を布教したわけであるが、結局キリスト教よりはその音楽体系が根付いたというべきかもしれない。しかし、まだすっきりはしない。

     「音楽と言語」はドイツ語の件になって難しくなってきた。楽譜が沢山でてくる。一応ざっと読んでまた読み直そうと思う。ラテン語はアクセントの位置が固定していなくて(活用などで変化する)、そのために発音がそのまま意味を指し示すような言語ではないが、ドイツ語はアクセントが一番最初のシラブルであって、前置語と一体化すると後ろに移るから、発音が意味を持つ、ということである。ドイツ語においては強弱であったり、弱強であったりして、とにかく強勢のメリハリがはっきりしている。宗教改革の影響もあってキリスト教がラテン語から離れていくと、宗教音楽もドイツ語に即したものに変化した。その最初の集成がシュッツである。

      パレストリーナの段階ではラテン語の文章構造と音楽の構造を対応させたのであるが、個々の単語の発音はそのまま音楽ではなかった。しかし、ドイツ語ではそれが可能となった。勿論この傾向はモンテヴェルディにおいてある程度先駆的に実現されていたのであるが、ドイツ語という環境においてはより直接的になったのである。つまり単語の強勢をそのまま拍子として音楽化することによって、語りが音楽となる。宗教音楽に初めて拍子が入ってくる。さて、このあたりまでは音楽は言語の発音に即していくが、バッハに到って、音楽が言語の発音ではなく、言語の意味の音楽的表現に向かうようになる。音楽はいわばドイツ語という言語からその音楽性を習得し、ついには言語で語りきれない宗教的感情を独立して表現するようになる。バロック時代の他の作曲家が器楽曲を演奏の楽しみのために作曲していたのに対して、バッハは器楽曲に朗誦と同じレベルの深い表現を与えた。もともと、正統なる音楽(キリスト教の音楽)は声楽であって、器楽はせいぜい旅芸人の仕事であった。バッハ一族もそうである。しかし、J.S.Bachに到って、器楽は声楽とは独立した世界を持ち同等の尊敬を集めるようになった。

      この時代以降の宗教音楽には両方が共存している。すなわち、レシタティーヴォは昔ながらの伝統であって、散文の発音を生かしながらの音楽付けであるが、前奏やアリアなど他の部分は器楽が主体であって、そこでは言葉はしばしば引き伸ばされたり繰り返されたりしていて、意味を担うのは音楽(旋律やリズムや和声)なのである。そこではもはやグレゴリア聖歌などに捉われることなく世俗の旋律を使って宗教的感情が表現される。特にバッハは昔から声楽の構造として使われていたフーガを器楽の作曲原理として追求した

      しかし、バッハがそうやって器楽音楽の方法論の探索と集成を行っている間に、この音楽の器楽的な発展はより自由な(楽しみとしての音楽の要素の強い)作曲技法へと向かう。ハイドンによるソナタ形式、モーツァルトによるオペラ、ベートーヴェンによる交響曲とピアノ曲、と続くウィーン古典派である。器楽的な意味の世界が開けるということは音楽の宗教からの解放(世俗化)を意味していた。世俗化といってもバロック時代の世俗ではなく、世俗そのものが社会的にも個人的にも深遠な思想であるような世俗、すなわち近代主義である。音楽は器楽によってキリスト教(言語)を脱却することで民族性を超える契機を持つ事になる。勿論、その中身はヨーロッパで育んできた、調性に基づく和声進行、強弱の拍子、に捉われていて、他の地域に見られる自由なリズムや微分音やモードの多様性には欠けている。

      鎌倉への往復電車の中で「音楽と言語」は読み終えたが、なかなか難しい。

      バロック音楽が叙事詩であるのに対して、ウィーン古典派は演劇である、とある。その意味であるが、バロック音楽は予め神によって予見されたことが起こる世界であって、象徴的には通奏低音によって支配されている。勿論ラテン語の声明は既に解体されていて、音楽は単なる言語の意味以上の深い内容を暗示するようになっている。楽器が「語る」ということが始まったのである。しかし、曲としての統一はラテン語の声明のなれの果てではあるが、通奏低音によって、予め決められている。そういう意味で神や英雄の生涯を語る叙事詩である。それに対して、ウィーン古典派は教会音楽ではなく、やや大衆よりの音楽から派生しており、いくつかの「語り」を並列的に扱う。もはや通奏低音は捨て去られ、その代わりにそれらの互いに性格を異にする「語り」つまり主題が絡み合いながら発展し統合される、という筋書きによって曲としての統一が得られる。あたかも、一曲の中で次々と予期せぬ「事件」が発生し、上手く解決されていく、という意味で演劇なのである。神ではなく人間が音楽の主役となるのである。そういう意味ではこの段階で行き着くところに行き着いたと言えるかもしれない。

      しかし、シューベルトに始まるロマン派に到って、その表現方法がやや変化する。ウィーン古典派の音楽においては人間の感情や論理が語られるが、そこではあくまでも語るもの(作曲家=演奏家)と語られるもの(人間的感情や論理)の対峙する関係が明確に音楽の構造に反映される。自我と外界との境界に言葉があるように音楽もあった。音楽は自分の感情すら外界として客観的に眺めて記述するのである。しかし、ロマン派においては、そのような境界は存在せず、ひたすら内面の表現に終始する。テキストからかもし出される感情や気分がそのまま音楽になる。表題音楽はその典型であろう。ウィーン古典派の「語り」はあくまでも綿綿と受け継がれてきた西洋音楽の語彙に依拠している。しかし、それはある意味で支配階級の語彙でもあった。ロマン派の作曲家達が相手にしたのは今日的な意味での大衆である。彼らにとって、ウィーン古典派の語彙は訳のわからない呪文というと言いすぎかもしれないが、それよりも「気分」(宗教的であれ、俗的であれ、)を与えてくれる音楽が求められた。キリスト教よりも、古い言い伝えや、昔話、民族の伝説、教養よりは、恋愛感情が求められたのである。その後、西洋音楽はさまざまな欲求に応えるべく多様な表現手段を獲得していく。調性すら否定するような運動もあれば、そもそも音を発することすら否定される場合もある。しかし、主たる発展の方向はヨーロッパ以外の諸民族の音楽との結合であった。

       この本を一言でまとめると、叙事詩として一体化していた言語と音楽がキリスト教の取り込みによって音楽を失った言語(教義)となり、長い歴史を経て再び音楽を獲得し、その事で音楽が逆に言語の表現力を得て、人間を主役とする音楽(ウィーン古典派)を生み出し、それが再び解体されていく、ということである。ここでいう音楽というのは、一般的にいう音楽ではないということは最後に注意しておくべきだと思う。そもそも民俗的な意味での音楽は太古から綿綿と実施されてきた人間らしい活動なのである。西洋「音楽」の発展もまたそれらの民俗的な音楽なしにはありえない。近代化という引き返すことの出来ない人類史上の大きな出来事がむしろこの特殊な西洋音楽を標準であるかの如く感じさせているに過ぎないのであるが、近代化が避け得ないと同様に我々は西洋音楽を避けることができないのである。

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