2019.10.19

   図書館から借りてきて、ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」(角川書店)を読んだ。有名な本である。あまりにもいろんな本に引用されているので読む気にならなかったのであるが、時間を持て余したのでついに手を出した次第である。

    この人は<幻肢>に初めて納得のいく説明を与えた人である。身体感覚には大脳の中に対応する地図がある。単純に考えればそれぞれの部分からそこに感覚神経が到達しているのであるが、実際にはそんなにキチンとしている訳ではなくて、周辺の神経も入ってくるが、抑制されているのである。腕を切断すると、対応する大脳の部分には腕からの神経は信号を届けないので、近くの部分からの信号が残っていることになる。従って、例えば頬のような部分を刺激すると無くなった腕からの信号として知覚される。無くなった腕は痛むのであるが、外科的にはどうしようもない。ラマチャンドランは鏡を使って視覚的に無くなった腕を反対側の腕の虚像として視覚的に再現する事で無くなった腕を直した。視覚によって抑制がかかるということらしい。なかなか不思議な現象である。視覚や聴覚についても、<幻視や幻聴>が現われる。そもそも感覚イメージというのは単純に感覚器官からの信号を処理した結果なのではなくて、脳の中に作られた世界像と感覚刺激とのマッチングの結果なのである。感覚器官からの刺激が無くなれば、今まで抑制されていたいろいろな信号から、イメージが脳の側から提供されてそれが溢れかえる。幻視や幻聴である。脳は信号が無ければ世界像を作り出すことによって自らの存在を確認するのである。しかし、見えていなくても見えるべきものに対する反応はある。視覚情報の経路は大きく言って側頭葉に向かう対象の認知と、頭頂葉に向かう把握や方位の認知に分かれる。これらは新しい経路であって意識されるが、古い経路も残っていて、これらは無意識に見たものに対して反応するので、<盲視>と呼ばれる。更に話は、半側無視、疾病否認、カプグラの妄想、宗教感情、と続く。

    <半側無視>は、右半球頭頂葉の損傷で見られる。左側の視野が無視される症状である。左半球が言語や論理で多忙なため右側の視野しか担当しないのに対して、右半球は両側の視野からの情報を処理している。ところが意識的には左半球が情報を統合しているために、左側からくる情報が欠落したまま「世界」が成立してしまう。鏡を使って左側を認知させようとしても、虚像を実像と看做してしまう。これはむしろ頭頂葉の空間認知が上手く行かない所為かも知れない、という。

    <疾病否認>も右半球に関連している。左半球は次々と入ってくる感覚刺激から一貫した世界とストーリーを作り上げるのに忙しい。世界像に合わない情報は無視されたり作り変えられたりする。これに対して右半球は全体を見て不整合なところを捜している。不整合が閾値を越えるとモデル自身を変えてしまう。右半球のこういう機能が無くなると、左半球の作話に歯止めがなくなる。都合の悪い事は抑圧してしまうのである。これはフロイトが唱えた自我の機能に相当している。フロイトの理論は一切実証されなかったために誰も信じていないが、彼の基本的な思想は今日の脳科学の中で対応するものを持っている。彼の言うように、科学の進歩はいずれも人間の特権的な地位を引き摺り下ろしてきた。最初はコペルニクス、次はダーウィン、そしてフロイトである。それぞれ、地球、人間、意識、がより大きな枠組みの中のほんの一部に過ぎないことを教えてくれた。結局のところ、科学的認識は宗教的な感情を呼び起こす事になる。

    <カプグラの妄想>では、ごく親しい人(例えば両親)に限って、認知できなくなる、というより、良く似てはいるけれども、つまり相貌ははっきりと認識しているけれども、偽者である、と感じてしまう。視覚認知としてそれが両親と似ているというところまでは側頭葉で認知されるが、その先には大脳辺縁系に情報が送られて、親密感やら両親に対する感情が引き起こされるのが普通である。カプグラ妄想ではその部分が障害になっているために、どうしても両親であるというストーリーが成立しない。そこで左脳は両親の偽者であるという話を作り上げるのである。詳しく調べていくと、記憶形成のメカニズムに障害があることが判ってきた。通常人は特定の人に対する経験を一つのカテゴリーの中にまとめていくことで記憶を強化する。こういった時間経過による持続的なカテゴリー形成にはおそらく親しみや暖かさといった感情の信号がないと上手くいかないようで、同じ人であってもそのたびに新たなカテゴリーを作ってしまうのではないだろうか?その結果例えば、彼にとってパナマという国は2つあることになったり、同じ人がちょっと視線を変えただけで、良く似た別の人として認知されてしまうことになる。これは当然「自己」の認知にも影響が及んでくる。自分がどんどん「複製」されていく。

    <宗教的感情>は側頭葉の癲癇で高まり、扁桃体が興奮の限度を越すと宗教的妄想が元に戻らなくなってしまう。一体何のためにこんな感情の中枢が用意されているのだろうか?それはヒトの進化の過程で何らかの選択圧になったのだろうか?この点でダーウィンは首尾一貫した淘汰説であり、ウォレスはヒトが築き上げた「文化」の蓄積に拠る、と考える。
    次の話は、笑い死にした人の話である。<笑い>にも中枢があって、頭頂部の島から辺縁系の帯状回というところらしい。島は身体から痛みを含む刺激を受けて、帯状回などに出力を送り、そこで強い嫌悪の感情が作られる。その間の連絡が切れてしまうと、島からの痛み通報と、帯状回からの何でもないという通報が矛盾する。脅威とそれに続く安心信号は笑いという反応を生み出す。笑いが止まらないと脳が酸素不足になって死亡する。笑いは威嚇の表情(犬歯を剥きだす)が中途半端に止まったものである。つまり、敵と思っていた他者が突然親しい安心できる他者であると認知したときに、相手に向けた威嚇の表情を途中で止めるのである。笑い話の構造はそういう風に出来ている。つまり、深刻な危機のストーリーが極限まで達した時に、実にささいな理由であったというオチが付くのである。進化論的には、危機に瀕してストレスの溜っている集団を落ち着かせる効果があったのではないか。

    最後の2章は、<想像妊娠>の話と、<クオリア>の話。今までの話のまとめの意味もある。この人の話は具体的な患者の実例に基づいていて、しかも推論が面白いが、ややまとまりを欠くようにも思う。お喋りがすぎるような気もする。まとまりがあるとすれば、自己というのは脳の作り出した幻想であって、あくまで宇宙の一部であるに過ぎない、という「東洋的」な考え方であろうか。もっとも何か確固とした理論体系を目的としているのではなくて、読者をそういった考えに導くというのが彼の狙いのような気がする。

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