19.03.24  
       Karen Barad の本からだけではやはり不安なので、最近の量子力学分野の権威の意見を知りたいと思って、佐藤文隆の『量子力学は世界を記述できるか』(青土社)を一応読み終えた。数式無しで随筆風なので、肝心な処が良く判らない感じだが、この分野(量子情報)の位置付けとか、量子力学の解釈論の全体像とかが、判るようにはなっている。

      量子力学はまずは作用(エネルギー×時間の次元を持つ)について、それがプランク定数 h を単位とする不連続な値で離散化される、ということの発見(量子論)から始まり、Schroedinger、Heisenberg、Born といった人達によって、古典論での物理量が演算子となり、その演算子の作用する対象として量子力学的状態ベクトル(波動関数での表現がその例)を備えた数学的な体系化(力学方程式:Schroedinger 方程式がその例)が編み出された。この背景には当時のマッハに代表される実証主義の流行がある、という。計算結果が波動関数であるから確定的な物理量を与えず、測定によって初めて確定する、という筋立てで、現象の背後にある『実在』という概念が括弧に入ったまま不問に付されて、実験事実を説明することに特化したのである。

      Einstein はこの流れを生み出した張本人でありながら、この体系化と状態ベクトルの確率解釈に反発した。大御所からの反論に対して、若い人達が動揺するのを防ぐために Bohr が代表して防御線を張った。佐藤氏は『思想善導』と皮肉っている。Bohr は、実在は波動関数ではなく、測定器と一体化した『現象』である、と答えた。かくして、とりあえずは実験で確かめようもない論争となった。若い人達はその保護の元に、ひたすら体系化された量子力学の応用範囲を広げて行って、20世紀の文明の物質的基盤を作りあげた、とも言える。

      ともあれ、Bohr の波動関数の解釈を現実に当てはめようとすれば、測定時に測定値が確率的に定まるということになり、波動関数が測定物理量の固有関数の一つに『収縮』する、ということを認めざるを得ない。これが如何にも不自然に(人為的に)見える。これが『測定問題』である。Bohr は人間が測定結果を知るためには最終的には古典的な概念に当てはめるしかない、と答えたから、結局最終的には測定者たる人間を持ち出して話を収めたのである。

      Einstein も Bohr も亡くなってしまったのだが、Einstein の側に立って、本当は確定した測定値というものが測定の前に存在するのではないか、と考えたのが Bell で、それを証明する方法として、分裂した二つの粒子を別々に測定する時に、統計的に成立する不等式を導いた(1964 年)。量子力学で計算するとこの不等式が破られる場合が存在するのである。ただ、これを実験できちんと確認するには 1982 年まで待たねばならなかった。結果は Bell の不等式が破られたのである(Alain Aspect)。

      こうして、Bohr が勝利したのであるが、その後の技術的な進歩によって、更に詳しい事情が判って来た。それは、測定とは言っても工夫すれば、波動関数の収縮無しで可能だ、ということである。(量子消しゴム実験、Kim et al. 2000)。つまり、収縮させて測定値を取り出さざるを得なかったのは、測定技術が未熟だったからである。これは考え方の一部では Einstein も正しかった、ということでもある。(もっとも Bohr 自身も測定即収縮とは言っていないのであるが。)

      いずれにしても、波動関数にはまだ取り出すべき情報があった!そのコヒーレンスを維持したまま制御することで、情報の変換(つまり計算)をやらせることすらできる。これが新しい分野『量子情報』である。これはもはや物理学というよりも情報学(ソフトウェアー)というべきである。プランク定数 h はそれを支えるハードウェアーの位置にまで退いている。だから、量子力学は、時空的存在(実在)を扱う h の量子論と、情報を扱う波動関数の量子力学に分けて考えた方が良いというのが、佐藤氏の意見である。

      それでは、『測定問題』はどうなったか?これについては、まだ、さまざまな論議があるが、佐藤氏が妥当な線と考えているのは、デコヒーレンス歴史、という一派である。測定対象と測定器を対等な関係にある部分系と考えて、測定器の側の特徴を『開いた系』と考える。この特徴によって、測定器の側からは制御できない相互作用(熱的な擾乱)が介入してくる。これが、測定対象のコヒーレンスを乱して、測定値を確定させる。という感じで、これならまあ常識の範囲内で僕の考えと同じだか、佐藤氏の解説ではもっと大事な事があるようで、詳しい処は原論文を読まないと判らない。グリフィン、オムネス、ハートル、ゲルマン、という名前が挙がっている。Karen Barad の考えもこの延長上のものとして理解できるかもしれない。

19.03.27
●<追記>
    デコヒーレンス派の Wojciech H. Zurek の review を少し読んだ。"Decoherence and the Transition from Quantum to Classical-Revisited", Los Alamos Science #27(2002), p2-22. である。ネットで無料入手できる。初歩的な解説の後で、コヒーレンスが失われるまでの時間についてとか、カオスとの関係が解析されているのだが、とりあえずは、その初歩だけを読んだ。

    例はもっとも単純な1/2スピン系である。重ね合わせ状態は |↑> と|↓> の線形和であるから、

    |ψs> = α|↑> + β|↓> ; αα* + ββ* = 1、* は複素共役、となる。

これを不均一磁場の測定器(Stern-Gerlach 装置)で測定する。その測定器の状態を |d↑>、|d↓> とする。これは、モデル化して、初期状態が |d↓> であり、|↑> に対してだけ、逆転する、という風に定義する。つまり、

    |↑>|d↓> → |↑>|d↑>

が測定器の機能である。そうすると、

    |ψs>|d↓>  → α|↑>|d↑> + β|↓>|d↓> = |Φc>

となる。これはスピンと測定器がもつれ合っていてコヒーレントな状態である。
スピン状態と測定器状態は完全に相関していて、且つ二つの状態が重ね合わされている。
これをスピン状態と測定器状態の積に書くことはできない。
コヒーレンスが失われる状況を記述するためには、密度行列ρを定義しておく必要がある。

    ρc = |Φc><Φc|
        =   αα*|↑><↑||d↑><d↑| + ββ*|↓><↓||d↓><d↓|
          + αβ*|↑><↓||d↑><d↓| + α*β|↓><↑||d↓><d↑|
                          (* は複素共役を表す。掛け算ではない。)

スピン(及び測定器の状態)が ↑ である確率は αα* で ↓ である確率は ββ* となるが、この場合、後半の2項(非対角項)が干渉効果を表している。これが在る為に、系の状態は定まっていない。この干渉項を消去して、

    ρr = αα*|↑><↑||d↑><d↑| + ββ*|↓><↓||d↓><d↓|

とすると、これは、古典的な意味での密度行列であり、系としては、確定した状態であるが、まだ知られていないだけ(未知)、という意味での確率を表す。フォン・ノイマンが考えたデコヒーレンスである。彼は、このプロセスを量子力学の測定公理として新たに追加して、『収縮』と言われていることの本質的な部分を定式化したのである。

    この意義付けとしては、環境因子を考慮することになる。つまり、スピンと測定器全体の状態 |Φc> は環境 |Ε0> と相互作用して、同じように、環境によって測定される。

    |Φc>|Ε0> → α|↑>|d↑>|Ε↑> + β|↓>|d↓>|Ε↓> = |Ψ>

しかしながら、環境は把握できない程多くの自由度があるので、スピン状態と相関した自由度だけで見た時に、それらの間の干渉項は測定できないくらい小さくなり、無視できるとせざるを得ない。|Ε↑> も |Ε↓> もスピンと測定器の状態と相関しているので、環境項で干渉項が無視できるということは、そもそも干渉項そのものが無視できるということである。こうして、

    ρc = Tr(Ε)|Ψ><Ψ| ≒ ρr
    :ここで Tr(Ε) は環境状態についての対角成分を足し合わせる、という意味である、

が導かれる。つまり、環境からの影響によって、スピンと測定器系におけるコヒーレンスが壊されていくのである。当然ながら、干渉項が消えるというのは、消えるか消えないかの二者択一ではなく、連続的にその閾値を考える必要が生じる。それでは、どの程度まで環境を整えれば、干渉項が消えないのだろうか?というのが次の問題で、論文では、この後、コヒーレンスが壊されていくプロセスを解析しているのだが、ここまでにする。

(注)なお、非対角項については、任意の物理量 P の期待値で考えた方が判りやすい。

    <Ψ|P|Ψ>
    =   αα*<Ε↑|<d↑|<↑|P|↑>|d↑>|Ε↑> + ββ*<Ε↓|<d↓|<↓|P|↓>|d↓>|Ε↓>
      + αβ*<Ε↓|<d↓|<↓|P|↑>|d↑>|Ε↑> + α*β<Ε↑|<d↑|<↑|P|↓>|d↓>|Ε↓>

    異なる状態間であるから、時間依存性も考慮すると、後半の干渉項には、

      exp{-(2πΔE/h)t} という因子が入る。

ここで、ΔE は |↑>|d↑>|Ε↑> と |↓>|d↓>|Ε↓> のエネルギーの差である。つまり、物理量の期待値が周期的な振動をしているから、干渉可能な状態である。ところが、自由度が大きいという事は、この時間依存性(周期)がランダムに変動するということで、これにより、緩和時間 (τD) 程度で非対角項による干渉効果は消えてしまうのである。

●もう一つ、これは重要な事かもしれない。最初に想定した重ね合わせ状態

    |ψs> = α|↑> + β|↓>

であるが、これを『重ね合わせ』と考えるのは、|↑> と |↓> を基底とするからである。それは、z 軸方向の磁場におけるスピンの固有状態である。しかし、それは考えてみれば、『測定器の都合』にすぎない。実際、この |ψs> そのものを基底とするような測定も可能である。計算はややこしそうであるが、z 軸を少し x-y 平面方向に傾けた軸方向での上向きスピン状態の筈である。その場合は、重ね合わせ状態ではなく、固有状態 |ψs> に過ぎない。つまり、

     |↑>|d↓> → |↑>|d↑>

という測定器の機能というのは、測定器の基準に従って未知のスピン系を分類する、ということである。測定器の固有状態に合わなければ、スピンと測定器は重ね合わせ状態になる。密度演算子を構成するときに、非対角項には異なる固有状態のエネルギー差 ΔE により、 exp{-(2πΔE/h)t} という因子が入る。しかし、環境によるΔEの揺らぎによって、その因子の入った項(干渉項)がいずれは消えていって、測定値が『決定』される。勿論測定者が知る前にである。この『決定』が起きるような環境の範囲を囲い、干渉項を無視することで、測定対象と測定器が分離する、(つまり |↑>|d↑> あるいは  |↓>|d↓> のいずれかの形式(積形式)にする、)ことが『切断』であり、その時、測定対象の ↑ ↓ という性質が、測定器の d↑ d↓ として刻印される。しかし、実験においてこういう事がうまく起こるのは人間が『環境』をそのように設定するからであり、20世紀初頭においては、その設定は古典物理学上の概念に沿ったものであった。だから、これが Bohr の教義の落としどころでもある。20世紀後期に至って、『決定』される前のコヒーレント状態において人間が介入するだけの技術が出来上がって来たことで、やっと、この辺りの事情が注目されるようになったのである。現実の世界では、デコヒーレンスがどの程度起きているのかは様々であろう。Karen Barad に沿って人間をこの関与から外してしまうことを考えると、その『自然な』設定においては、どのような物理量の固有状態に落ち着くのかさえ判らない。しかし、それもまた広義の『測定』と考えるならば、その仮想の『物理量』をどう考えればよいのか?この辺は宇宙論ではいくつかの例があるかもしれない。

    Zurek の論文は、引き続いて、粒子が、それに働く力の場という環境に置かれた場合を解析した彼自身の論文の結論を解説している。粒子の密度行列の時間発展は、

    フォン・ノイマンが与えた古典的な粒子の運動項(古典的な確率変化)+場からの摩擦による緩和項+絶対温度に比例したデコヒーレンス項

となる。二ケ所に存在する波束の重ね合わせの場合を計算して、その非対角項がどれくらい早く減衰するか、を2次元の密度行列表示でグラフ化している。その緩和時間は

    τD = τR {h/2πΔx}^2/2mkT :
      τR は摩擦係数の逆数、Δx は二ケ所間の距離、k はボルツマン定数。

●最後の章が面白いので、翻訳しておく。

<古典的なリアリティの量子論> by W.H.Zurek
    古典的なリアリティは古典的法則に従う古典的な状態によって純粋に定義できる、これまでの節において、これらのリアリティが量子物理の基盤から出現してくる様子を見てきた: 開かれた量子系は局所的な波束によって記述される状態へと強制される。それらは古典的な運動方程式に従うが、緩和項と揺らぎの項は量子論に起源を持つ。他に説明すべきことがあるだろうか?

    量子物理学の解釈に関する論争は Schroedinger 方程式の予測と我々の認識との間の不調和に起源を持つ。そこで、私はこの論文を終えるに当たって、問題の根源−決定的な結末の認識−を再考してみよう。もしも、この精神的なプロセスが本質的に非物理的であるとしたら、究極的な疑問−何故我々は量子論的な選択肢の内の一つを認識するのか?−を物理学の文脈の中で定式化し記述することは不可能であろう。実際、Eugene Wigner(1961)に従って、状態ベクトルの収縮を引き起こす最後の言葉としての意識を持ち出したい誘惑に駆られる。つまり、高度な精神的プロセスが全て、良く定義された、しかし現在では理解不十分な、物理的な系、我々の脳、によって実行されている、情報処理機能に対応している、という考えを検討するだろう。

    このように記述されることで、物理的解析が理解しやすくなる。とりわけ、これまで記述してきたようなデコヒーレンスのプロセスは脳の状態に影響する筈である。個人の神経細胞の関係する観測量、化学組成や電位、は巨視的である。それらは、古典的な運動の散逸方程式に従う。だから、神経細胞のどんな量子論的重ね合わせでも我々にとっては充分に速く量子論的な『進行』を意識させる。デコヒーレンス、あるいはより適切には、環境によって引き起こされた超選択、は我々自身の『心の状態』に適用される。

    それでもなお、神経細胞の適切な基盤が我々の見慣れた宇宙において古典的な観測量と相関するようになるのは何故か、と問うかもしれない。結局の処、我々が自身の感覚を非古典的な重ね合わせを認識するように訓練したとするならば、量子物理学をもっと容易に信じることのだろうが。一つの明らかな理由は、相互作用 Hamiltonian の選択の可能性が限定されていて、検出可能な観測量の選択に制限を与えているから、である。しかしながら、この古典論への絞り込みには、決定的な役割を果たしているもう一つの理由がある: 我々の感覚は量子力学を検証する目的の為には進化してきていない。むしろ、それらは生存への最大適合が中心的な役割を果たすようなプロセスを経て発展してきたのである。予測によって何も得られないような場合には、その認識に対する進化的な理由は無くなる。そして、予測可能の網が図示するように、デコヒーレンスによっても崩れない量子状態のみが、だから、実質的に古典的な状態のみが、予測可能な結末となるのである。実際、古典的リアリティは予測可能性と殆ど同義語なのである。

    この論文で描かれたデコヒーレンスのプロセスは量子論から古典論への遷移を理解する上で重要な中心的な要素であることは疑いない。環境が、実際に、特定の重ね合わせを観測させないような選択則を与えている。このプロセスを生き抜いた状態のみが古典的となる。

    この概観的な記述は更に拡張されるだろうということも、それ以上に疑いないだろう。(追加の実験が可能なもっと現実的なモデルを考える研究のような)技術的な事項においても、(『系』をどう構成するのか、あるいは、観測者がいかにして大きな観点に適合するのか、といった)新しい概念的な導入、の様な、より多くの研究が必要とされる。

    デコヒーレンスは、二つの解釈のいずれの枠組みにおいて、有用である: それは Everett の多世界解釈における分岐の定義を提供すると同時に、Bohr の観点からの中心的な概念である境界の画定も提供する。そして、それらの事について既に知ったことから教訓を一つ挙げるとすれば、それは情報とその伝達が量子論的宇宙においては鍵となる役割である、ということである。

    自然科学は以下のような暗黙の仮定の上に築かれてきた: 宇宙についての情報は宇宙を変えることなく得られる。『固い科学』の考えは、客観的であり、リアリティの記述を与える、ということである。情報は、エーテル的、天上的であり、言語化可能な物質的宇宙の、何の結果ももたらさない反省であり、物理学の法則で支配される領域を超えた、それとは結合していない、ものであると見做されてきた。この見方はもはや維持できない(Landauer, "Information is Physical", Physics Today vol.44(5),p.23,1991:ネットで無料入手可能)。量子理論は、この Laplace の機械的宇宙の夢に終止符を打った。量子現象の観測者はもはや受動的な見物人では在りえない。量子論の法則は測定対象の状態を変えることなく情報を得ることを不可能にしている。在るものと知られるものとの間の区別は曖昧となってしまった。この境界を消去することで、量子理論は同時に、『意識的観測者』から情報を獲得し貯蔵するという特権を奪ってしまった: どんな相関も一つの登録であり、どんな量子論的状態も何か他の量子論的状態の記録である。相関が強固であれば、あるいは記録が充分に消去できないものであれば、馴染み深い古典的な『客観的リアリティ』が量子論的基盤から出現して、そのような相関を確立するだろう: 実際、環境は対象の状態を測定し、これが量子論的コヒーレンスを破壊するのに十分である。結果としてのデコヒーレンスは、だから、量子論から古典論への遷移を誘導するのに欠くべからざる役割を果たす。

●(追記)
    観測問題のデコヒーレンス解釈については、吉田伸夫さんの簡潔な解説がある。まだ厳密には解決していないということらしい!しかしまあ、これ以上深入りしない方が賢明だろう。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo11.htm
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qa_a22.htm
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qa_a84.htm
 
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