2024.08.24
『富士山2200年の秘密』戸谷学(太陽出版)も武田鉄矢の話から借りてきた本である。面白いけど。。。
木の章:竜神信仰
久能山東照宮-富士山-小川町富士山-世良田東照宮-日光東照宮を結ぶ直線を「不二のライン」と呼ぶ。
江戸城を取り囲むらせん状の堀は富士からの霊気を呼び込む仕組みである。その流路に目黒不動、目青不動、目白不動、目赤不動、があり、目黄不動は本来江戸城にあった筈だが、後世に作られた。陰陽五行説の解説。。。神道との関係。1.かんなび(山)が玄武、2.ひもろぎ(森)が青龍、3.いわくら(岩山)が白虎、4.ひ(太陽)が朱雀に対応。
火の章:火の神話富士山本宮浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメであるが、これは「竹取物語」以降である。社殿が作られたのは806年、坂之上田村麻呂に拠るから、古事記、日本書紀よりも後である。古くからあるのは山宮であって、社殿を持たない。浅間大神(富士大神)を祀る。浅間は火山の意味であり、その語源は阿蘇山である。こちらは富士山よりも古く、9万年前の大噴火で山が無くなったので、1万年前に完成した富士山の方が高いということになった。富士山も本格的な噴火ともなれば山頂が無くなってしまうだろう。
最も古い富士山の記録は9世紀の『富士山記』(都良香)。神仙思想に彩られているが、何かしら中央政権とは別の支配者が居たような感じである。『竹取物語』はほぼその直後に書かれていて、やはり神仙思想に貫かれている。天上の国からみて地上の国は「流刑地」とされている。天上世界では不老不死が当たり前であったが、地上の人も「不老不死の薬」を飲むことで不老不死となる。これが「仙人」である。土の章:常世の国へ
聖徳太子は黒駒に乗って富士山まで飛翔したという伝説がある。これは聖地巡礼であるが、仏教とは関係無い。厩戸皇子の政治的業績はほぼすべて蘇我馬子が達成したものであって、皇子は利用されたにすぎない。そのことを隠ぺいするために藤原不比等が書紀に皇子の生い立ちの奇跡を書き込んだ。藤原兼輔は917年に『聖徳太子伝略』でそれを補強した。聖徳太子は藤原氏の為の神となった。それ以前、藤原不比等は富士山を禁忌(きんき、タブー)としていた。だから日本書紀(720年)には登場しない。人々は富士山から藤原氏の出自、鹿島=海人族=江南地域を連想してしまう。渡来の血統は皇族に連なることができない。737年に藤原氏の4兄弟が揃って疫病死した結果、藤原氏の権力独占が終わり、その間に富士山の禁忌が解かれた。その後に復権した藤原氏は、今度は逆手を取って富士山を聖地化し、聖徳太子を富士山に聖地巡礼させることで聖地と藤原氏を結び付けた(917年)。『竹取物語』では、姫の無理難題に5人の貴族が応えられないのだが、その一人のモデルが藤原不比等であることからも、これは藤原氏批判の物語であった。著者は勿論伏されている。
もっと古い時代から富士山は知られていたが、伊勢の内宮はわざわざ富士山が見えない場所を選んで建てられている。それは富士山がヤマト王権の及ばない地域だったからである。
金の章:東海の神山最大の火山にふさわしい神はスサノオである。スサノオは天上から追い出されて、朝鮮半島を経由して出雲に定着した。須我神社がある。すがすがしい、といったことから名がついた。スガというのは以後聖地を意味するようになった。
2200年前の『史記』によれば、秦の始皇帝が徐福(本名は徐市という方士、実在した)に東方を探索させたところ、徐福は海中の神に出会い、「蓬莱山には不老不死の薬がある、良家の子女3000人と技術と五穀の種を献上すればそれを与えよう」と言われたので、始皇帝に報告すると、徐福はそれらを携えて献上するように命令を受けたのだが、徐福は薬を得ることなくその地に住み着いてしまった。(おそらく徐福は最初から嘘をついていたのだろう。)BC200年頃であるから、国家規模の移住ということになる。新宮市の阿須賀神社には徐福が祀ってある。熊野発祥の地と言われる。スサノオと徐福の来歴はよく似ている。五穀の種を持ち込んだというところまでそっくりである。想像するに、スサノオ(徐福)は息子のイソタケルを熊野に残して、自らは蓬莱山(富士山)を目指したのではないか?
水の章:ふつのみたま縄文時代の貝塚の1/4は東京湾岸一帯にに見出されている。弥生時代に入ると巨大古墳が作られ始めた。埼玉古墳群が有名で、稲荷山古墳から出土した「鉄剣」には 115文字の金象嵌の銘文が刻まれていた。
方士が行っていた「天心十字法」に従って、都の位置を探ると、富士山と筑波山を結ぶ直線と浅間山から望む冬至の日の出の方向の直線との交点に氷川神社がある。この場所は古くから大宮と呼ばれてきた。スサノオが祀られている。縁起には、ヤマト朝廷の成立後に神社の地位が高くなった、とある。つまり、ヤマトはこの地の統括者と取引をしたと考えられる。天皇は元旦に、北に向かい自らの属星を拝し、天を拝し、西北に向かって地を拝し、四方を拝し、山陵を拝する。その中で氷川神社も拝される。明治天皇は東京に移って4日後に氷川神社を武蔵国の総鎮守とした。氷川神社の鎮座する神社は関東圏に偏っている。大宮は徐福宮であったと考えられる。風水から言えば、徐福は筑波山に埋葬され、その後富士山に改葬するように指示するだろう。
富士大神も筑波男大神も縄文時代からの信仰であり、ヤマト政権の外部にあった。稲荷山古墳は記紀が編纂される200年前のもので、前方後円墳ながら、富士山の方向を向いている。周辺にあった多くの古墳群は無知ゆえに取り壊されてしまった。大規模な都市が関東ローム層に埋まっていると思われる。オオクニヌシが譲り渡した国とはこの地のことだったのかもしれない。フジ(不死)の名は徐福によって付けられた名前かもしれない。元々はアサマ山であった筈だから。
天理市にある石上神宮の祭神はフツノミタマノオオキミ(神剣)である。スサノオが大蛇を退治した時の剣。藤原氏が台頭するまでは物部氏が国家祭祀をしていた。ヤマトが熊野から上陸して進軍するときに功績のあった剣を物部氏に祭らせた。石上はイソノカミであるから、イソノタケルである。五穀の種を携えてやってきた。フツは徐福の本名徐市(じょふつ)のふつである。フツノミタマとは徐福の刀の事である。
出雲神話は国譲りした古代の王を慰霊鎮魂する為に書かれた呪術書である。前半の荒ぶる神はアサマ神で、後半の国土開拓神は徐福一行の功績である。物部氏と中臣氏はその子孫の二大系譜である。フツノミタマツルギを奪い合う物部と中臣。つまり、祭祀の主導権争いである。物部が守ったのは石上だけであった。鎌足は氷川の出自、徐福の末裔であることを隠したりしなかったが、不比等は皇位に近づくために隠そうとしたので、日本書紀に富士山を記述しなかった。藤原氏が富士山の呪縛から完全に解き放たれたのは804年藤原富士麻呂誕生の時であった。 <目次へ> <一つ前へ> <次へ>