中山元「フーコー入門」(ちくま新書)を読み終わった。僕は今までフランス現代思想は敬遠していたのだが、Karen Barad の本に出てくる主要人物なので、とりあえず把握しておく必要があると思った。しかし、彼女が評価・批評しているフーコー像はかなり狭い範囲のもののように思われる。フーコーは生涯をかけて探索を続けたのであるが、何もポスト構造主義としてまとめられてしまうような業績を残そうと思ったわけではない。真理と思われているものを問い直し、歴史的経緯を調べて覆すという絶えざる努力が、フーコーなのであって、必ずしもその言説が判りやすく首尾一貫している訳でもない。

      最後の方で彼は近代(福祉=戦争)国家の統治の原理を問い直す。その原型を中世の「司牧者権力」と見定める。死後に天国に行くことこそがキリスト教の目的であったから、現世において罪を犯さないことが重要となる。罪については「告白」によって許されねばならない。それは公的なものであり、告白は自己の放棄であり、司祭に対する絶対的な服従の儀式である。神の許しは教会組織の特権であり、司祭達は信者の幸福(天国行き)の為に一生を捧げていたのだが、実質的には教会組織の統治が目的であった。これは近代国家が国民の福祉の為に国民に絶対的な服従(国家存亡の危機には命を投げ出す)を求めるのと同じ構図である。教会から国家がその特権を奪ったにすぎないのである。

      この構図を転覆させるために、フーコーはキリスト教以前の古典ギリシャやローマ時代を探り、到達したのが、愛の為に自己を捨てるのではなく、自己を意識的に統御するという道徳である。つまり、自己を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないことが一つの可能性。もう一つは「真理ゲーム」である。真理は一つではなく、個々の真理は自由な主体の行為としてしかありえないから、全ての主体は自分なりの真理の確立に参加できる、ということである。この辺はハンナ・アレントと似てくる。
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